酒と車と御朱印の日々

「毎日更新」心願成就へ向け飲んで走ってひたすら祈る!悲願は実現する!

【御朱印】満福寺は頼朝と義経の最初の攻防の地だった

今回は腰越の満福寺の御朱印をご紹介します。

こちらをお参りして御朱印を頂いたのは当ブログを立ち上げる直前の昨年8月でした。いつかご紹介しようと思っていたのですが、昨日同じ腰越の小動寺をご紹介しましたので、今日がちょうどいいタイミングだと思います。

 

腰越は京都から鎌倉入りする際の重要なルート上にあり、古来より宿場町として繁栄した街ですが、現在では江ノ電が専用軌道から路面電車区間になる場所として知られています。

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満福寺は真言宗の寺院で744年に聖武天皇の勅命で行基が建立したと伝えられています。

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行基は後に東大寺の大仏造営の実質的な責任者となるほどの高僧ですが、東国で流行していた疫病を抑えるためにこの地で薬師如来像を刻んでお祀りしました。

 

御霊神社と同様に山門の直前に江ノ電の線路が敷かれています。

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満福寺の山門です。

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満福寺の本堂です。

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満福寺は源義経ゆかりの寺として知られています。1185年に源平合戦において活躍した源義経は、念願の平家討滅を成し遂げたにも関わらず兄である頼朝から鎌倉入りを拒絶されこの地で足止めされます。腰越滞在中に義経一行が宿舎としたのが満福寺でした。

この時に兄である頼朝に対して自分の心情を綴った手紙が有名な腰越状ですが、それを書いたのもここ満福寺です。

 

「義経・腰越状」の石碑です。義経が口頭で書状の中身を伝え、弁慶がそれを書き写すというシーンです。

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弁慶の腰掛石です。弁慶の出身地である和歌山県田辺市にもこういったものがあるようです。

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弁慶の手玉石です。怪力と言われた弁慶が手玉に取った石のようです。

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腰越状についてはWikipediaに全文が現代語訳されて掲載されているので今回じっくりと読んでみましたが、自分の勲功を誇り勘気を被っていることに対する不満を綴っている内容で、頼朝が自分のどこに怒っているのか全く理解できていないように思いました。

 

一の谷の戦いの後京都滞在中に義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられましたが、頼朝の許可なく官位を受けたことはまだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものでした。

また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものでした。

そして主として西国の武士団を率いて戦果をほぼ独り占めしてしまうような勲功をあげてしまったことは、頼朝の権力基盤である東国武士団の不満を噴出させてしまうものだったのです。会って話せばわかってもらえるというようなものではありません。

 

義経は軍事においては天才的作戦家でしたが、それしか能のない男であったという事でしょう。京都に帰るよう命じられると「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」という捨て台詞を残したそうですから、頼朝が怒るのも無理はありません。満福寺は頼朝と義経の最初の攻防の地であったと言ってもいいでしょう。

ちなみに満福寺には腰越状の下書きと言われるものが残っているそうです。

 

その後の義経は様々な経緯を経て最終的に平泉の藤原秀衡にかくまわれるのですが、秀衡の死後後を継いだ泰衡に襲われて現在の高館義経堂の地で自害しました。その首は鎌倉に送られて首実検されたのち、藤沢の白旗神社に御祭神として祀られたということです。

 

御朱印は寺務所で頂けます。

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美しい筆跡の御朱印を頂きました。

 

◆義経が最後に頼った奥州藤原氏の栄華を今に伝える中尊寺の記事

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◆義経最期の地である高館義経堂の記事

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◆同じく目の前を江ノ電が走る御霊神社の記事

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【御朱印】スサノオを祀る小動神社は津波に強そうな立地だった

今回は腰越の小動岬に鎮座する小動神社(こゆるぎじんじゃ)の御朱印をご紹介します。

 

腰越は京都から鎌倉入りする際の重要なルート上にあることから、古来より宿場町として栄えた街です。1185年に源平合戦において活躍した源義経は、念願の平家討滅を成し遂げたにも関わらず兄である頼朝から鎌倉入りを拒絶されこの地で足止めされます。その際に滞在していた満福寺は江ノ電の線路を挟んだ反対側にあります。(近日紹介予定)

 

「こゆるぎ」という名前は、風もないのに揺れる美しい松である「小動の松」がこの岬の山の頂にあったことに由来しています。

腰越駅で江ノ電を下車し、海岸沿いを走る国道134号線を渡ると小動神社の一の鳥居があります。

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参道は緑のトンネルに覆われています。

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参道奥の階段を登ると二の鳥居です。

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二の鳥居をくぐると右手に本殿があります。

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源頼朝に伊豆配流の時代から仕えていた佐々木盛綱が、源平合戦に際して父の領国である近江の八王子宮を勧請したことが小動神社の起源とされています。江の島弁財天にお参りした際にこの地を訪れ、大いにその風光を賞して勧請の地と定めたといいます。

1333年の鎌倉攻めの際には新田義貞がこちらで戦勝祈願を行い、戦に勝つと太刀と黄金を神社に寄進し、これにより社殿を建て直すことができました。

須佐之男命、建御名方神、日本武尊を御祭神として祀っています。

 

赤いほっかむりをした狛犬は地元の漁師の寄進だそうです。

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右が稲荷社、左が金刀比羅宮です。

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漁業の神、航海の神をまつる海神社(わたつみじんじゃ)です。

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諸願成就の神である第六天神をまつる第六天社です。

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境内には展望台がありました。幕末にはこの地に番所が設置され、異国船が渡来した場合の通報拠点とされていました。

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展望台から望む江の島の姿です。

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岬の先端の崖下は太宰治が三日前に知り合った女性と睡眠薬自殺を図った場所になります。女性は死亡しますが本人は近くの病院に担ぎ込まれて助かりました。

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ところで小動神社は須佐之男命を祀っている神社です。スサノオといえば以前にも書きましたが「スサノオを祀った神社は東日本大震災で被災を免れている」という東工大教授の6年前の論文のことが気になります。

水害や疫病に対する力をもったスサノオノミコトは非常時、リスク時における神であり、伝統的地域社会において人々はスサノオを祀る神社を自然災害発生時に最も安全な場所に建てていたと論文では結論付けています。

 

実際に南千住の素戔雄神社は荒川が決壊すればほぼ全域やられる荒川区に位置していながら、その中でも比較的安全な場所にありました。

今回鎌倉市のハザードマップを見ると小動神社は海抜14.8mに位置しています。鎌倉市が想定している南海トラフ巨大地震と南関東地震における最悪の津波が高さ10.3mですから、海沿いであっても安全な場所という事ができそうです。

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sougoubousai/documents/02tsunamih-m-inamura-kosigoe.pdf

ちなみに海側から小動神社のある場所を見上げるとこんな感じです。

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この辺りは鳶が目線の高さで飛んでいました。

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崖には何やらよくわからない洞窟がありました。

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先の大戦の末期には本土決戦に向けて横穴陣地が構築されたとありますから、その跡かもしれません。こんなもので戦えるつもりだったのでしょうか?

 

御朱印は参道脇の授与所で頂けます。

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ダイナミックな御朱印を頂きました。

 

◆荒川が氾濫しても何とかなりそうな素戔雄神社の記事

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「認知症でも運転できる」って何考えてんだ

あちこちで書いている記事のネタ探しのため、ネットのニュースはなるべく隅々まで見るようにしているのですが、最近最も驚いたのはYAHOOニュースにもはてなブックマークにも載っていた「『認知症でも運転できる』改正道交法に当事者や医師ら」という記事です。何考えているんだと思いました。

「認知症でも運転できる」 改正道交法に当事者や医師ら - Yahoo!ニュース

高齢ドライバーによる車の暴走や高速道路の逆走などが相次いだことにより、今年の3月から道路交通法が改正になりました。75歳以上の方に関して免許更新時や一定の違反行為をした時に認知機能検査が行われ、「認知症のおそれ」と判定された場合に医師の診断書の提出が義務付けられるようになったのです。医師の診断の結果認知症と判断された場合運転免許が取り消しとなります。

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「運転能力のある認知症の人もいるうえ、高齢者にも豊かな生活を営む権利がある。」ということから、当事者団体や学会などからは「認知症、即免許停止は乱暴」「危険運転との因果関係は証明できていない」といった批判が寄せられているそうです。車がないと生活できない高齢者も存在する中、この新ルールをどう捉えたらいいのかという点に関し、記事では様々な意見を紹介しています。

 

私が免許を取得したのは昭和63年1月ですから、自分で車を運転するようになって29年になります。その間に警察を呼ばなければならないような事例は2回ありましたが、幸いなことにまだ自分の保険を使うような事故を起こしたことはまだありません。

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私は医師ではないので認知症に関する知識はWikipediaで確認するしかありませんが、「認知症でも安全に運転できる人はいる」という立場で記事に意見を寄せた方々よりは車の運転について詳しい自信はあります。

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運転する際に私が常に肝に銘じているのが「たとえそのつもりがなくても人を殺してしまう場合がある」ということです。運転していると、避けようのない「もらい事故」というものあります。しかし自分が原因となるような事故だけは絶対に起こしたくはありません。

 

事故を防ぐために運転中にしなければならないことはかなり数多くあります。ミラーで後方や左右の状況を常に確認しなければなりません。車線変更や右左折等ウィンカーを操作するような動きをする場合には死角となる範囲を目視で確認します。交通量の多い幹線道路を走るような場合は起こりうる危険を予測して事故を未然に防ぐ「危険予知」運転もしなければいけません。そしてある程度の反射神経ととっさの判断力も絶対に必要です。

 

認知症について調べてみましたが、脳の機能障害により知能が低下した状態ということだけは間違いないようです。「認知症でも安全に運転できる」人とは恐らく脳の中枢に車の運転に関する事項が刻み込まれていて、たとえ知能が低下しても体は動くという状況なのかと思います。しかしそれは「本能的で車を動かす」というものであり、知識と技能に基づく「安全な運転」といえるようなものではありません。

「認知症でも安全に運転できる人はいる」と主張する方は車を安全に運転するという事を軽く考えているのではないでしょうか。

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この記事においてもう一つ主張しているのは、認知症と診断されて免許を停止することは「豊かな生活を営む権利」「住み慣れた街で自分らしく生きる権利」を奪うもので「仕事や楽しみ、生きがいを失う」「外出の機会を奪うことで体の機能を低下させる」ということです。

日本においては車が無いと生活が難しい地域が数多くあるという事情はわかっています。そのような地域に住む高齢者の方は別の手段で救済すべきなのです。高齢になって心身の機能が低下した方の免許を停止することは、豊かに生きる権利を奪うという類のものでは決してなく、むしろ本人のためなのです。

「豊かな生活を営む権利」「住み慣れた街で自分らしく生きる権利」といっても、事故を起こせば本人や被害者だけでなく第三者まで不幸に巻き込むことになります。運転技能が低下すれば事故を起こす確率は確実に増えます。

高齢者がAT車を暴走させるという事故が相次いでいて、ここ一年での死者は恐らく数十人という単位になっているかと思います。不幸な事故を減らすためには何とかしなくてはいけないのです。

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私の母は私の住むマンションの駐車場内で車を暴走させ、フェンスと植栽を壊したことがあります。恐らくアクセルとブレーキを踏み間違えたのだと思いますが、幸いなことに周囲に人がいなかったため、管理員と管理会社に詫びを入れるだけで済みました。しかしもしこの時に人を巻き込んでいたらこんなものでは済まなくなります。母はしばらくして免許を返納しました。

車を運転するのに免許が必要なのは、車が本来危険なもので運転するには一定水準以上の知識を技能が必要だからではないでしょうか。そうすると知識も技能も失った者がそれでも免許を持ち続けるというのがそもそもおかしいのです。「認知症でも運転できるか否か」ということとは次元が違う話です。

 

最後にもう一度書きます。車を運転するという事は本人にそのつもりが無くても結果として人を殺してしまうことがあるのです。車を運転することを軽く考えてはいけません。

 

◆高齢者の事故続発のニュースで考えた

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◆私が意識している運転の基本

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大涌谷に車で行くにはそれなりの覚悟が必要な理由

火山活動によって立ち入り禁止となっていた大涌谷が、2016年7月より一部のエリアを除いて規制解除となり、一部区間のみの運行となっていた箱根ロープウェーも全線運行を再開しました。これにより大涌谷の景観を再び楽しめるようになったということで、どうも大変な人気になっているようです。

 

車が何よりも好きな私にとって箱根は手頃なドライブコースでこれまで何十回も行っていますが、通常のドライブコースから外れたところに位置している大涌谷は長らく箱根唯一の空白地域となっていました。

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かくてはならじと一度だけ向かったことがありましたが、駐車場からの大渋滞が途中の三叉路(国有林三叉路というらしい)まで延びていて断念せざるを得ませんでした。

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そのため私の大涌谷デビューは、休みに町田駅にいた際、たまたま入ってきたロマンスカーにその場の思い付きで乗ってしまった2015年の2月まで待たなければなりません。しかし富士山が実に綺麗に見えた意外、大涌谷に関して特に印象は残っていません。

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今回の大涌谷の火山活動で噴き出した火山灰は約100トンだったといい、大規模な噴火の場合が数千万~数億トンであることを考えるとくしゃみといったレベルにも至らないような小規模なものだと言えますが。しかしそれでも大涌谷の様子は以前と比べて随分と変わったようです。学校が夏休みに入って混雑するようになる前にと思い先日行ってきました。

 

問題の三叉路です。

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前回は大涌谷からの渋滞が三叉路を曲がってこのあたりまで続いていたのです。

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三叉路から駐車場までは一本道であるため一度渋滞にはまると逃げようがありません。混雑時は1時間以上かかるそうです。そのため三叉路で左を見て、もし渋滞しているようなら今回もさっさと芦ノ湖に下りるつもりでした。

 

平日でしかも早めに出たこともあって今回はスムーズに駐車場までたどり着きました。駐車場の直前に車線が「走行車線」「駐車場」と二つに分かれます。

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ここで必ず右車線に入っていないと駐車場に入り損ね、元来た道を引き返さなければならないことになりますから注意してください。

 

駐車場は上下2か所ありましたが、思っていた以上に小さいものでした。

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HPには「大涌谷駐車場の事務所建替え工事(H29年6月~12月予定)に伴い、駐車場の一部が使用できなくなります。」と書かれていました。どうやら下段の駐車場はしばらく使用できないようです。

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車が早雲山を通るあたりから既に硫黄の匂いがしていました。以前より火山活動が活発化しているのがよくわかります。

地獄谷上部から出る火山性の蒸気です。以前来た時に大涌谷で蒸気が出ていたのは確かこちらだけだったように記憶しています。

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地獄谷下部です。蒸気井から轟音とともに大量の蒸気が噴き出していました。

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大涌谷では蒸気井から火山性蒸気を取り出し、地下水を加えて白濁した温泉を造成しています。

 

要所要所に監視責任者がいて上記の様子を注視していました。

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火山性ガスに対する注意書きがあちこちに貼ってあります。

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規制解除とはなったものの、まだまだ注意が必要であることがよくわかります。

 

気象条件のいい時に大涌谷から見える範囲です。

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実際はこんな感じでした。

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大涌谷が特に混み合うのは土、日、月曜日、ゴールデンウィーク、夏休み、紅葉シーズンなのだそうです。この時期に大涌谷に車で行こうとされる方は渋滞をものともしないだけの覚悟が必要です。

 

◆箱根に行く際のメインルートである小田原厚木道路と国道1号線の記事

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【御朱印】癌封じの上行寺は何とも不思議な外観の寺院だった

今回は鎌倉の癌封じの寺として知られる上行寺の超個性的な御朱印をご紹介します。

以前妙本寺から光明寺まで大町・材木座エリアの寺社をまわった際、八雲神社から安養院に向かう途中道路の反対側にかなり異質な寺院を発見して何となく気になっていました。

山門は普通の寺院でしたが、お堂と思われる建物の道路に面した箇所に手書きで「癌除」とでかでかと書いた看板を貼りだしています。その他に「薬師瘡守稲荷」「身がわり鬼子母神」という表示もあり、見るからに不思議なな雰囲気がぷんぷんしていました。

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その時は当初の予定になかった寺院であるためそのままスルーしてしまいましたが、あとで調べてみると上行寺という癌封じで有名な寺院のようです。御朱印も個性的なようなので今回お参りしてきました。

 

上行寺はみごとなツツジで有名な安養院の道路を挟んだ向かい側に位置する日蓮宗の寺院です。

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創建が1313年という事ですから700年以上の歴史のある寺院という事になります。光則寺の土牢の逸話で知られた日郎は多くの弟子を育成しましたが、その中でも特に優れた9人が後に九老僧と呼ばれました。上行寺の開山はこの九老僧の一人である日範です。

 

上行寺の本堂です。1886年に妙法寺の法華堂を移築したもので、堂内には日蓮上人像や開山の日範上人像、水天像などが安置されています。

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手書きの看板が何とも個性的です。ともかくありとあらゆることに効きそうです。

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わざわざこのような貼り紙がしてあるくらいですからともかく上を見ました。

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欄間の龍の彫刻は熊本の大名である細川氏の手によるものだそうです。

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気付かなかったのですが、山門には日光東照宮の眠り猫を掘ったとされる左甚五郎作の龍の彫り物があるそうです。「お前は一体何者だ?」と思わず言ってしまいそうになる寺院です。

 

本堂横にあるお地蔵様です。

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境内の西側に浄行堂があります。さらにびっくりするような光景です。

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こちらには万病、特に癌に効があるといわれている瘡守稲荷堂や、大小の鬼子母神が祀られています。

 

御朱印は本堂脇の民家のような場所でいただけます。本当にここで良いか不安でしたが、呼び鈴を押すと快く対応してくれました。

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上行寺は鎌倉の寺社の中で唯一鎌倉市観光協会に加盟していない寺院なのだそうです。「ここは観光をするところではない」という考えに基づいているようですが、それにも関わらず私が滞在している間にも数組の参詣者がありました。寺の不思議な外観といい個性的な御朱印といい、逆に全国から観光客を呼び込む要因となっているようです。

 

◆巨大な閻魔大王像と超極太の御朱印が印象的だった円応寺の記事

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◆日範の師である日郎を監禁した土牢のある光則寺の記事

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【御朱印】光則寺は花と土牢で有名だった

今回は長谷の光則寺の御朱印をご紹介します。

光則寺は1274年に創建された日蓮宗の寺院で、東慶寺や寶戒寺と並び鎌倉でも有数の花寺です。

 

あじさいの時期に明月院や長谷寺に行くとどういうことになるか昨年痛烈に思い知らされたため、今回「あじさいの超穴場スポット」というキーワードで検索して知ったのが光則寺です。長谷にはこれまで何度も行っていましたが、そのような寺院があるとは全くの初耳です。

これは行かなければと気にはしていましたが、伊勢だの群馬だの平泉だのと遠方に出かけることにばかり熱中している間にあじさいは終わってしまいました。今回お参りしたのは、たとえあじさいが終わっても何かこの時期ならではの見どころはあろうという期待からです。

 

地図で見ると光則寺は長谷寺から少し奥まった場所に位置しているようです。長谷寺にはこれまで2回お参りしていますが、その際には全く気付きませんでした。駅から高徳院に向かう道を注意深く周囲を見回しながら進んでいるととある石碑に気付きました。ここが光則寺への入り口だったのです。

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鎌倉によくある「光則寺まで〇〇m」というような案内が全くなかったためにこれまで気付かずに素通りしていたようです。

 

この日は皮膚に痛みを感じるくらいの日差しであったのになぜか雨がぱらついてきました。

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今思えば池袋で雹が降り、藤沢や小田原で停電が発生し、小田急江ノ島線がストップしたゲリラ雷雨のこれが最初のサインだったのです。

 

光則寺の山門です。

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光則寺は鎌倉幕府第五代執権北条時頼の近臣である宿谷光則の屋敷跡です。

日蓮が立正安国論を書き上げた際、こちらの屋敷を訪れて光則の父の行時にこれを託しました。

この立正安国論が原因となって龍の口法難と日蓮の佐渡流罪へとつながっていきます。その際北条時頼は日蓮の弟子の日郎も捕らえて光則の邸内の土牢に監禁するのですが、本来監視役であるべき光則が逆に日蓮の教えに心を寄せるようになってしまいました。そして日郎を開基として自分の屋敷を寺にしたのが光則寺です。

 

山門をくぐると正面に日蓮聖人の真筆に基づく「立正安国論御勧由来」を彫った石碑が立っています。

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光則寺の本堂です。

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光則寺と直接の関係は無いのですが、熱心な法華経の信者だったという事で建てられた宮沢賢治の詩碑です。

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境内は植物で溢れていました。

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どこもかしこも緑に覆われていました。

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今回もっとも印象深かった光則寺のハスです。

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「かながわの名木100選」にも定められているバラ科の花海堂です。

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本堂の脇には庭園もあります。

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山門でもらえる「光則寺山野草と茶花マップ」です。

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一部を拡大してみました。あれだけ数多く植えられている植物を全て記録していて、まさに驚嘆させられました。

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土牢を見に行くことにします。案内に従って階段を上ります。

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山の中腹に向かって進みました。

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日郎が監禁されていたという土牢で、何とも生々しいものを感じました。

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土牢に向かう道沿いに御朱印所はあります。

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気付きにくいので注意してください。ベルを押してお願いすると快く受けて下さいました。

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これまで見たことのないタイプの御朱印でした。

 

◆鎌倉の花寺である東慶寺と寶戒寺の記事

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「鎌倉美水」の神楽うどんは暑くて食欲がなくても何杯でも食べられる

今回は鎌倉最大の繁華街である小町通りに位置する「鎌倉美水(かまくらみすい)」をご紹介します。

 

小町通りは鎌倉駅東口を出てすぐの所から若宮大路と平行に「鉄の井」まで延びている道です。

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グルメ・ショッピング・アートの各分野で洗練されたおしゃれな店が並ぶ商店街で鎌倉を代表する繁華街となっています。平日・週末を問わず常に混み合っていますが、恐らく鶴岡八幡宮を訪れる参詣客の大半が若宮大路ではなく小町通りを通っているのではないかと思います。

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その昔、現在の小町通り周辺は瀬戸耕地と呼ばれる農道でした。しかし明治22年に横須賀線が開通して鎌倉駅が開業すると少しづつ街が形成されるようになりました。

もともと「小町」という地名は若宮大路と滑川の間の現在の琴弾橋あたりを指していたようです。そこに鎮座していた蛭子神社の氏子が現在の小町通付近に多く住んでいたために新小町と呼ばれるようになり、その後このあたり一帯を小町と呼ぶことで統一されました。

 

昭和27年に鎌倉小町通商店会が誕生すると店が増え始めますが、それでも昭和40年代くらいまでは道路はまだ舗装されておらず、子供が道いっぱいになって遊んでいるようなのどかな通りであったといいます。

小町通りが現在のような姿となったのはテレビや雑誌で鎌倉が頻繁に取り上げられるようになったここ40年くらいのことなのです。

 

鎌倉美水は小町通りのメインルートからは一本裏側に入った場所に位置していますが、鎌倉小町通商店会にも加盟しているようなので小町通りの店としてご紹介します。

裏側の道に面しているため、小町通りから客を呼び込むためには誘導看板が欠かせません。

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かなりの人気店のようでいつ行っても行列が絶えません。

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美水という名前に示されたように水にこだわっていて、うどんを打つのに使用する水もだしを取るための水も特別な浄水器を使用して富士の湧き水と同じ成分にしたものを使用しているそうです。

鎌倉小町通商店会のホームページではうどん専門店を名乗っていますが、メニューの主体はご飯ものや天ぷら類とセットになった「〇〇御膳」です。私はあくまでうどんを味わいたかったので季節限定メニューの神楽美水を注文しました。

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店内の50席がほぼ全て埋まっているような混み方でありながらそれほど待たずに出てきたところをみると、注文を受けてから茹で始めるのではなく讃岐うどんや伊勢うどんのようにあらかじめうどんを茹でおきしていると思われます。客はどんどん回転しているようなのでほぼ茹でたての状態で出されているでしょう。

 

これが神楽美水です。冷たいうどんに揚玉、ネギ、ワカメ、鰹節、海苔、肉そぼろ、大根おろし、卵黄がトッピングされていました。

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レモンを絞りかけてひたすらかき回しました。

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うどんは少し細目で讃岐うどんや水沢うどんのあったようなずっしり感はありませんが、半透明のうどんがピカピカしていていかにも美味そうです。食べてみると決して硬くなく、それでいてモチモチしたコシがあって口の中の粘膜にまとわりついてくるような食感で、飲み込むときののど越しが何とも言えません。揚玉と肉そぼろがうどんの淡白さにこってり感を加えていて、これなら暑くて食欲がないような時でもいくらでも食べられそうです。

 

同じ小町通り周辺の「みよし」が若干の高級感を売りにしているのに対し「美水」それと対極の庶民的な店でしたが、「みよし」と同様にこれからも来てみたいと思うような店でした。

 

鎌倉の寺社の大半はまわってしまったのではないかと思いますが、それ以外のことについてはまだまだ知らないことばかりです。鎌倉を極めたと言える日が来ることはあるのでしょうか。

鎌倉 美水

住所:鎌倉市小町2-9-22

営業時間:11:00~17:00(平日)

     11:00~17:30(土日祝)

 

◆鎌倉最強のうどんだと思う「鎌倉みよし」の記事三本

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