久能山東照宮の御朱印は3種類で、杉の木に書かれた「金の成る木」御朱印が特に有名です。アクセス方法としては1159段の階段かロープウェイの2種類で、境内は国宝と重要文化財に満ち満ちています。
- 杉の木に書かれた「金の成る木」御朱印が有名
- オリジナル御朱印帳は2種類
- 久能山東照宮の由緒
- アクセスは1159段の階段か?ロープウェイか?
- 秀忠・家光時代の建物が残る境内
- 境内社
- 「金の成る木」の遺言
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杉の木に書かれた「金の成る木」御朱印が有名
御朱印所
久能山東照宮の御朱印所は拝観受付に隣接した場所にあります。
こちらでは通常御朱印・金陀美具足御朱印・金の成る木御朱印の3種類の御朱印を頂けます。通常御朱印は直書き、金陀美具足御朱印は書置きで、金の成る木御朱印は杉の木に書かれています。
受付時間 9:00~17:00
初穂料 300円~700円
通常御朱印と金の成る木御朱印
今回は2種類頂きました。
通常御朱印
金の成る木御朱印
過去に頂いた御朱印
平成31年4月6日付です。
オリジナル御朱印帳は2種類
久能山東照宮ではカラフルな御朱印帳を扱っています。サイズは大サイズと小サイズの2種類で、紙質は普通です。
価格1500円~2000円
久能山東照宮の由緒
久能山は駿河湾の海岸沿いに隆起してできた標高216mの山で、1568年に武田信玄が城を築いたほどの要害の地です。1582年に武田家が滅亡すると徳川家康の所有となり、後に「久能城は駿府城の本丸と思う」と述べるほど徳川家にとって重要な場所となります。
1616年に家康が死ぬとその遺言により遺骸は久能山に葬られ、翌年には秀忠によって社殿が造営されます。そして3代将軍家光の時代に日光東照宮の造営とならんで久能山の整備も命じられ、社殿以外の建物が増築されて現在の姿となりました。
アクセスは1159段の階段か?ロープウェイか?
静岡駅の南東方向で駿河湾沿いにある有度山(標高307m)の山頂周辺一帯は日本平と呼ばれており、その南域に久能山(標高216m)があります
久能山東照宮へのアクセスとしては日本平からロープウェイを利用するルートと久能山下から1159段の石段を登る表参道の2通りしかありません。
ロープウェイ
日本平ロープウェイ行のバスは北口にある11番バス乗り場から発車します。
本数はそれほど多くはありません。待ち時間が長ければ静岡駅のホームでチーズそばを食べることをおすすめします。
日本平から久能山へロープウェイで山を下ります。
1159段の階段
日本平の反対側の海岸沿いにある山下石鳥居より境内に入るルートが久能山東照宮の表参道です。
石段のある久能山下(くのうやました)へは静岡駅南口22番バス乗り場から東大谷行を利用し、終点で久能山下行に乗り換えます。(直行便もあるが本数が少ない)
バス停周辺はイチゴ農園ばかりで一瞬途方にくれると思いますが、海の反対側に注目していれば山上に一ノ門が見えるはずです。
久能山東照宮の表参道は山下石鳥居より本殿前まで17曲り1,159段ある石段で、愛宕神社(出世の石段)86段・戸隠神社宝光社270段・秩父御嶽神社368段・新倉富士浅間神社398段と比較しても段数において際立っています。
そうは言っても斜面をジグザグに登っていくため傾斜が緩く、それほど大変ではありません。
最上部の見晴台からは駿河湾と一面のイチゴ農園を一望できます。海の色が沖に行くほど濃くなっていくのが印象的でした。
階段を上がりきると一ノ門があります。元は櫓門でしたが1884年(明治17年)に暴風によって倒壊しその後平屋に改められています。
この日は修繕工事中でしたが、本来の姿はこのようになっています。
地図
主要な東照宮
秀忠・家光時代の建物が残る境内
久能山は駿河湾の海岸沿いに隆起してできた標高216mの山で、武田家の滅亡により1582年に徳川家康の所有となりました。1616年に家康が死ぬとその遺言により遺骸は久能山に一旦葬られ、翌年には秀忠によって東照宮の社殿が造営されます。そして3代将軍家光の時代に日光東照宮と並んで久能山も整備され、現在の姿となりました。境内には秀忠・家光の時代の建物がほぼそのまま残されています。
楼門(重要文化財)
拝観受付を済ませて境内に入ると正面にそびえています。
前面に後水尾天皇の手による「東証大権現」の額が掲げられているので、勅額御門とも呼ばれています。
中央の蟇股に平和の象徴である獏(ばく)の彫刻があり、(表側左右の格子戸内に随身、裏側左右の金剛柵内に狛犬が据えられています。
神厩(重要文化財)
当初は家康の愛馬を飼育していましたが、現在は左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められています。
鼓楼(重要文化財)
創建当時は鐘楼でしたが、明治時代の神仏分離の際に鐘を太鼓に替えて現在の名称となりました。
神庫(重要文化財)
正倉院と同じ校倉造りの建物で、博物館ができるまでは神社に伝わる宝物類が納められていました。
唐門(重要文化財)
拝殿正面の門で、羽目板に唐獅子牡丹、黒松に鳥の透彫があります。
御社殿(国宝)
二条城、伏見城、江戸城、駿府城の城郭や、知恩院、増上寺の工事に携わった中井大和守正清の手によるもので、わずか1年7カ月という短期間で造営されました。
拝殿と本殿を石の間で連結しています。
日光東照宮より19年前に造られた総漆塗、極彩色の建物で、国宝に指定されています。
神廟(重要文化財)
家康の遺骸を埋葬した場所で、遺言により西向きに建てられています。
境内社
厳島神社・稲荷神社
日枝神社(重要文化財)
創建当時は東照大権現の本地仏である薬師如来像が安置されていましたが、明治時代の神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた山王社の御神体を納めて社名を日枝神社と改めました。
「金の成る木」の遺言
久能山東照宮の神廟の横には、根元から三つにわかれた樹齢 350年と言われる大木があり、「金の成る木」と言われています。
晩年の徳川家康が「金の成る木」として自ら筆をとって幹が三本ある木を描き、『よろず程のよ木(万事程のよき)』『志ひふかき(慈悲深き)』『志やうぢ木(正直)』と書かれ、「これを常々信用すれば必ず富貴が得られよう」と家臣たちに言ったという逸話が残されています。
それを受けて細川忠興が左右の枝を描き足し、『あさお木(朝起き)』『いさぎよ木』『志んぼうつよ木』『ゆだんな木』『ようじょうよ木(養生)』『かないむつまし木』と書き加えました。家康は「左右の枝が繁盛するならば一段と富貴が得られるであろう。皆々この金の成る木を写しとって家内のものに教えるように」と遺言したといいます。
家康のこの遺言に関しては「金の成る木」御朱印でいろいろと感じることができます。