上野東照宮では2種類の達筆な御朱印を頂けます。様々な苦難を乗り越えてきた歴史と由来があり、家光の時代の姿をそのまま残す社殿には様々な見どころがあります。
2種類の達筆な御朱印
御朱印所
御朱印所は拝観受付の反対側にあり、上野東照宮と境内社の栄誉権現社の2種類頂けます。
御朱印受付時間
冬季(10月~2月)9:30~16:00
夏季( 3月~9月)9:30~17:00
初穂料 300円
御朱印
上野東照宮の御朱印
令和3年1月10日付御朱印で、コロナ対応ということで全て書置きでした。ぼたん苑開催期間中は牡丹の絵が描かれます。
栄誉権現社の御朱印
境内社の栄誉権現社の御朱印です。こちらで祀られている狸を描いており、「他抜」御朱印と呼ばれています。こちらはコロナに関係なく書置きのみのようです。
過去に頂いた御朱印
平成28年6月1日付御朱印です。さらさらと流れるような美しい書体の御朱印です。恐らく「東照宮」と書いているのでしょうが、ここまで達筆だともはや何と書いているのかわかりません。
上野東照宮の歴史と由来
藤堂高虎の屋敷跡
上野東照宮はぼたん苑や五重塔とともに上野恩賜公園内に位置していますが、ここはもともと藤堂高虎の屋敷があった場所です。高虎が伊賀上野藩主であったことからこのあたりが上野という地名になったという説もあります。
死の病に倒れた晩年の徳川家康を高虎と天海大僧正が駿府城で見舞った際、家康は病床に二人を呼び三人が末永く魂鎮まる場所を造るよう遺言したといわれています。
それを受けて高虎は1627年に上野の屋敷内に家康を祭神とする宮祠を造りますが、三代将軍家光はこれが気に入らなかったようで1651年に全面的に作り替え、こうして現在の姿となりました。
創建時の姿を現在にまで残す奇跡の歴史
上野東照宮は創建時の姿を現在にまで残す貴重な神社です。幕末には寛永寺の伽藍や子院の多くが消失する上野戦争が勃発しましたが、上野東照宮には火の手が及びませんでした。関東大震災にも倒れず、第二次世界大戦では社殿のすぐ裏に爆弾が投下されましたが幸いにも不発弾で社殿の倒壊は免れました。
勝負運や仕事運のご利益
上野東照宮には徳川家初代将軍家康の他に8代将軍吉宗公、15代将軍慶喜公が祭神として祀られており、勝負運や仕事運のご利益で有名で、現在では上野のおすすめ観光スポットの一つとなっています。
アクセス
交通
山手線・日比谷線・銀座線上野駅徒歩約10分
地図
周辺の寺社
上野東照宮の境内
大石鳥居(重要文化財)
関東大震災の際にも少しも傾かなかったほど頑丈に作られています。
お化け灯篭
佐久間勝之より奉納されたもので、高さ6.8mと あまりにも大きいのでこの名があります。 同じ勝之が奉納した名古屋の熱田神宮、京都南禅寺の大石灯籠と合わせて日本三大石灯籠のひとつに数えられています。
水舎門
もともと手水舎として使用していた物を門として再利用しています。
石灯篭
1651年の改修の際諸大名から奉納されたものです。
五重塔(重要文化財)※東京都所有
1631年に土井利勝が寄進したものです。1639年に火災により焼失し、同年に再建されました。
明治になってからの神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈により全国で数多くの五重塔が破壊され、こちらも取り壊しの対象となっていましたが、寛永寺所属であると国に申し出たことにより辛うじて難を逃れました。寺から距離があり管理が難しいことから現在は東京都の所有となっています。
銅灯篭(重要文化財)
48基全て諸大名が奉納したもので、寄進した大名の氏名・官職名・奉納した年月日が刻まれている重要文化財です。
唐門(重要文化財)
1651年に造営されたものです。
門の両側に左甚五郎作の「昇り龍」「降り龍」の彫刻があります。偉大な人ほど頭を垂れるということで頭が下を向いている方が昇り龍です。
降り龍です。
社殿の見どころ
唐門の内部に入るには500円の拝観料が必要です。
透塀(重要文化財)
向こう側が透けて見えるので透塀と呼ばれています。上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物が表現されています。
社殿(重要文化財)
絢爛豪華な社殿です。三代将軍家光が社殿を建替えた際、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言われています。
拝殿・幣殿・本殿の三室から構成された権現造りです。
唐門の内側
境内社
狸を祀る境内社の栄誉権現社も拝観料エリアにあります。狸は「他を抜く」という縁起から強運開祖、受験・就職必勝の神様でとされています。
御神木の大楠
樹齢600年以上と考えられており、上野の祖木と言われています。幹の太さが8m以上あって上野公園随一の巨木です。
このブログのイチオシ記事
「評価に値する」と思われたらワンクリックお願いします。読者登録とブックマークを頂けるともっと嬉しいです。