深川不動堂の御朱印は火の出るような激しさを感じさせるものでした。門前仲町で富岡八幡宮と並ぶような場所に位置しており、新しい本堂での護摩焚きが和楽器集団のパフォーマンスのようで印象的でした。
深川不動堂の御朱印
御朱印所
御朱印は授与所で頂けます。
志納金300円
御朱印
中尊寺金色堂を思い出す火の出るような激しさを感じさせる御朱印です。
深川不動堂の由緒
歴代の團十郎が広めた不動信仰
深川不動堂の起源となったのは江戸時代に度々開催された成田山新勝寺の出開帳にあります。
荒廃していた成田山新勝寺を繁栄させたのは成田屋を屋号とする歌舞伎の名門である市川家です。跡継ぎの子供がいなかった初代市川團十郎は、成田山で祈願をしたご利益で長男を授かりました。
初代團十郎はこれに感謝して不動明王をテーマにした歌舞伎を演じますがこれが大ヒットし、その後も成田山を扱った芝居を上演し続けたことにより江戸庶民の間に不動信仰が広がりました。初代と同様に男子に恵まれなかった7代目團十郎も子授けを祈願すると報われ、そして産まれた8代目も人気役者となり成田屋と成田山はますます繫栄することになります。
深川不動堂の起源となった成田山の出開帳
市川家と成田山の持ちつ持たれつの関係により江戸の庶民の間に成田山の不動信仰が広がり、その結果本尊の不動明王像を江戸まで運んで人々に公開する出開帳が行われるようになりました。
この出開帳は江戸時代を通じて12回開催されましたが、その内何と11回が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われたのです。
明治政府による神仏分離令によって永代寺は廃寺となりましたが、庶民の不動信仰は衰えず、現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められ、明治14年に深川不動堂が創建されました。
各地の不動堂
アクセス
交通
東西線門前仲町駅徒歩約2分
大江戸線門前仲町駅徒歩約5分
地図
人情深川ご利益通り
深川不動堂は地下鉄門前仲町駅から地上に出てすぐの場所が参道入り口になっています。
門戦の参道は「人情深川ご利益通り」と呼ばれ、毎月1・15・28日に縁日が開かれて賑わいます。
参道沿いには有名な菓子店や食事処があって楽しむことができます。
深川不動堂の境内
平日だったにも関わらず多くの参詣客で賑わっており、隣の富岡八幡宮との差は歴然としていました。
境内入口
深川不動堂の境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することを東京都に認めさせたものです。
旧本堂
前本堂が東京大空襲で焼失したため、千葉県の龍腹寺のお堂(1863年建立)を移築したもので、平成23年まで本堂として使用していました。現在では「おねがい不動尊」が安置されています。
内仏殿
旧本堂裏手の4階建の建物が開創300年を期に平成12年に完成した内仏殿です。1、2、4階に様々な仏像を安置しています。
本堂
近代的な展示場を思わせる建物が開創310年を期に平成23年に完成した本堂です。深川不動堂の特徴である護摩供養はこちらで行なわれています。
本堂の壁はこのようにサンスクリット語の文様で彩られています。
深川開運出世稲荷
成田山出世稲荷を勧請したものです。
和楽器集団のフォーマンスのようだった護摩焚き
お参りしたのがちょうど13時の護摩焚きが始まるタイミングであったため、本堂に入って参加してみました。
護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、ついで護摩木を投じて祈願する護摩供養は密教の修法としてあちこちの寺院で見ることが出来ますが、深川不動堂の護摩供養は全く印象が違いました。
本堂の正面に不動明王像が祀られ中央にステージのような護摩壇があります。護摩壇を囲んでコンサートホールのように席が設けられており、人々はここで祈祷が進行していくのを見ることになります。(護摩壇の周囲には相撲の砂被り席のようなスペースもあった)
法螺貝を拭きながら僧侶が入場し、何台もの大太鼓を叩きながらの読経は空気が震えているのが感じられ、護摩供養というよりは和楽器集団によるパフォーマンスのように感じられ、思わず拍手してしまいそうになりました。
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