上野の寛永寺根本中堂の御朱印は歴史を感じさせる堂々たるものでした。根本中堂とは増上寺と並んで徳川家の菩提寺であった寛永寺の中心的施設で、徳川家の歴史と共にあった寺院です。堂内を拝観できる他、境内には様々な見どころがあります。
歴史を感じさせる堂々たる御朱印
御朱印所
寛永寺根本中道の御朱印は本堂左手奥の寺務所で頂けます。
志納金500円
御朱印帳
寛永寺根本中道のオリジナル御朱印帳は紺と薄緑の2種類です。小型サイズで三つ葉葵の紋所が右上と左下に描かれています。
価格1000円
御朱印
コロナ禍というせいか書置きではありますが歴史を感じさせられる堂々たる御朱印です。ちなみに瑠璃殿とは薬師瑠璃光如来像を本尊とする伽藍を示しています。
過去に頂いた御朱印
平成28年6月1日付です。
徳川家と共にあった寛永寺の歴史
増上寺と並んで徳川家の菩提寺として知られる寛永寺ですが、家康の江戸入府よりはるか以前から存在していた増上寺に対し、寛永寺が創建されたのは三代将軍家光の時代である1625年(寛永2年)です。創建時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としました。
その後徐々に伽藍の整備が進み、五代将軍綱吉の時代に寺の中心になる堂である根本中堂が落慶します。最盛期には現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。
幕末の大政奉還後、新政府に反対する彰義隊が寛永寺に立てこもったことから境内は上野戦争の戦場となり、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けます。その後土地のほとんどを明治政府に没収されて上野公園とされ、寺の規模は大幅に縮小しました。
アクセス
交通
JR京浜東北線・山手線鶯谷駅から徒歩6分
地図
寛永寺の諸堂
境内の見どころ
現在の寛永寺は子院である大慈院のあった敷地に位置しています。ちなみにこの地は幕末の鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜が恭順謹慎した地であり、蟄居していた部屋は非公開ですが保存されています。
根本中堂
現在の根本中堂は川越喜多院の本地堂を明治12年に移築したものです。
誠に堂々としており、寛永寺全盛期の建物と言われても信じてしまうのではないかと思います。堂内は通常なら拝観可能で、金色の仏像が何体も安置され徳川の紋所とあいまって発生するパワーを感じることができます。(コロナが終息するまでは無理そうです。)
戊辰戦争慰霊碑
境内が戦場になったこともあり、戊辰戦争の慰霊碑が建てられていました。
虫塚
伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため建てられました。
旧本坊表門鬼瓦
黒門として親しまれている旧本坊表門の鬼瓦が展示されていました。
寛永寺旧根本中堂鬼瓦
旧根本中堂の鬼瓦もありました。瓦だけでこれだけの大きさですから、かつての建物がどれほどの大きさだったのか想像ができます。
石碑
「施無畏(せむい)」と書かれているそうです。仏教用語で「相手に危害を加えず、恐れをいだかせない」ことを意味します。
将軍家霊廟勅額門
寛永寺を創建した家光は自分の葬儀を寛永寺で行った後、遺体は日光の輪王寺に遷されました。その後4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となりました。
寛永寺の御霊廟には六名の将軍(四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定が埋葬されています。
第四代家綱霊廟勅額門(重要文化財)
第五代綱吉霊廟勅額門(重要文化財)
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