目黒行人坂の途中にある大円寺は石仏群や八百屋お七など大火にまつわる場所が残されている寺院で、大変に力強い書体の御朱印を頂くことができます。本尊は体内に五臓を持つことから生身釈迦如来像と呼ばれています。
大円寺の御朱印
御朱印所
御朱印は本堂右手にある寺務所でいただけます。
志納金300円
御朱印
本尊と山の手七福神の大黒天の2種類頂けますが、今回は本尊の分だけ頂きました。
力強い書体で「生身釈迦如来」と書かれた御朱印を頂きました。
大円寺の由緒
大円寺が面する行人坂は目黒駅前から結婚式場として有名な目黒雅叙園の前に出る長さ約150mの坂で、平均勾配が約15.6%という大変に傾斜の急な坂として知られています。
道路法では道路の勾配は9%以下とし、地形上やむを得ない短区間でも12%以下と定められていますから、約15.6%という傾斜の凄さがお分かりいただけると思います。
現在では目黒周辺の主要交通路は17世紀末に開かれた権之助坂に移っていますが、それ以前は行人坂が江戸と目黒不動尊を結ぶ交通の要衝でした。
三代将軍家光の時代、このあたりに巣食って住民たちを苦しめていた不逞の輩を放逐するため、出羽三山の一つである湯殿山から招かれた修験道の行者である大海が創建したとされています。それ以降に行者が多く住み込んだために寺が面した坂が「行人坂」と呼ばれるようになりました。
アクセス
交通
山手線・目黒線目黒駅徒歩約3分
地図
近隣の寺社
江戸時代の大火と大円寺
大円寺の阿弥陀堂と境内の石仏群は江戸時代の大火にまつわるものです。
天和の大火と八百屋お七と阿弥陀堂
天和2年(1683年)に発生した火災は死者3500名という大火となりましたが、この火事で焼け出された八百屋のお七は近くの寺に避難し、そこで寺小姓の吉三と恋仲になってしまいます。
店が再建されて八百屋一家が避難先を引き払うと、お七は吉三と会うことが出来なくなりました。もう一度火事が起これば再び吉三と会うことが出来るかもしれないと思ったお七は自宅に放火します。火はすぐに消し止められたものの、当時放火は重罪でありお七は鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑となりました。
吉三は出家して西運を名乗り、現在の雅叙園の地にあった明王院に入ります。そしてお七の菩提を弔うために浅草寺に一万回お参りするという願掛けをして、27年5ヶ月かけて達成しました。
明治になって明王院は廃寺となり、「木造阿弥陀三尊像」や西運の木造、お七地蔵などが大円寺の阿弥陀堂に移されています。
明和の大火と大円寺石仏群
1772年(明和9年)に発生した火災は江戸三大大火の一つとされ、目黒から北東方向に向かって日本橋、神田、駒込、千住方面まで焼き尽くしましたが、この火元となったのが大円寺です。お堂に放火されたのが原因で大円寺も被害者という立場ではありましたが、大火の火元だったという事で1848年まで再建が許されませんでした。
東京100景の一つとされる大円寺石仏群は、この大火の犠牲者供養のために石工が50年という歳月をかけて作成され、大円寺が再建された際にこちらに安置されたとされています。
生身釈迦如来像を祀る境内
山門
行人坂の傾斜の凄さがよくお分かりいただけると思います。
釈迦堂
地震、火事、水害などあらゆる災害にビクともしない堅牢な建物に、大円寺の本尊である清涼寺式釈迦如来立像(重要文化財)を安置しています。体内に絹や綿で作られた五臓を持っていることから「生身(しょうじん)の釈迦像」と呼ばれ、年末年始や4月8日、11月初旬の東京文化財ウィーク期間に公開されます。
本堂
木造「十一面観音立像」、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」が安置されています。
薬師如来像
本堂の前に薬師如来があります。自分の体の悪い個所に金箔を貼って祈願すると治るとされています。
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