酒とうどんと御朱印の日々

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〖鎌倉〗極楽寺の直書きのみの御朱印と地獄そのものの場所に建てられた歴史

極楽寺の御朱印は直書きのみで、芸術的書体で「釈迦如来」と記して頂けます。死体が山積みになった地獄そのものの場所に建てられ、最盛期には広大な敷地に七堂伽藍と49の小院があった大寺院ですが、今は山門と本堂を残すのみとなっています。

御朱印は直書きのみ

御朱印所

本堂向かって右手の寺務所

極楽寺の御朱印は本堂向かって左手の寺務所で頂けます。

こちらの御朱印は直書きのみで書置きはありません。コロナの第7波襲来でもそれは変わりません。

受付時間9:00~16:30

志納金300円

御朱印

釈迦如来と記された御朱印

芸術的書体で「釈迦如来」と記されています。

過去に頂いた御朱印

平成28年7月19日付御朱印

平成28年7月19日付です。

地獄さながらの場所に建てられた歴史

極楽寺はもともと現在の湘南深沢駅付近にあった念仏系の寺院ですが、北条義時の三男である重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移しました。

当時の鎌倉では市街地での埋葬が禁じられており、また鎌倉石をくりぬいて「やぐら」を掘ることが出るのも上流階級だけでしたから、庶民が死ぬと遺体は山の外に運んで埋めるか放棄するしかありませんでした。そのためこの辺りは死体が山積みとなり、また身寄りがなく行き場を失った者がたむろするような、地獄そのものの場所だったといいます。同じように建長寺周辺も地獄谷と呼ばれています。地獄さながらの場所に建てられた寺院であるため極楽寺と名付けられたという説があるくらいです。

開基である北条重時は1261年に亡くなりますが、1267年に開山として良寛房忍性を迎えたことで伽藍の整備が進み、最盛期には広大な敷地に七堂伽藍と49の小院があった大寺院だったといいます。

その後は火災による焼失と復興を繰り返す中で徐々に衰退し、「沢庵和尚」として知られる沢庵宗彭が1633年に訪れた際は「壁は落ち、屋根は破れ、棟木はたわんでいる」状態だったといいます。

関東大震災では本堂が倒壊するなどの被害があり、その後近代になって再興されました。

アクセス

交通

江ノ島電鉄「極楽寺駅」から徒歩約2分

江ノ電で唯一のトンネルである極楽洞を望む櫻橋

極楽寺駅で下車し、江ノ電で唯一のトンネルである極楽洞を望む櫻橋を渡ってすぐの場所に位置しています。

地図

極楽寺の境内

かつて七堂伽藍と49の小院があった大寺院でしたが、現在では今では山門と本堂を残すのみとなっています。以前お参りした際には「境内撮影禁止」という張り紙がありましたが、今回はいくら探しても見当たりませんでした。

境内案内図

極楽寺の境内案内図

山門

極楽寺の茅葺屋根の山門

鎌倉でも珍しい茅葺屋根の山門は幕末の1863年に建てられたものです。

参道

一直線に延びる参道

本堂に向けて一直線に延びる、大変に印象的な参道です。

大師堂

大師堂

本堂

極楽寺の本堂

堂内は平素は非公開で、4月7日~9日のみ入堂できます。

良寛房忍性は本当に「菩薩」だったのか

良寛房忍性は貧民救済のために尽力したことで知られ、極楽寺の境内にも施薬院、悲田院、療病舎などが建てられ、貧民は無料で診察したりしたことで忍性菩薩と呼ばれるほど尊敬を集めました。そして没後遺骨が6か所に分骨されるほど人々に親しまれていたのです。

善人の極みのような良寛房忍性ですが、1271年の大干ばつの際は「菩薩」とは思えない行為に走ります。

「負けた方が相手の弟子になる」という約束で日蓮と雨乞い対決をして惨敗してしまいますが、約束を反故にするだけではなく、連名で幕府に訴えることにより日蓮に「龍ノ口法難」をもたらしたのでした。

「菩薩」と呼ばれるくらいの名僧であっても、公衆の面前で恥をかかされれば逆上してしまうくらい人間というものは弱いものなのでしょう。

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