浄光明寺では「達筆の極み」といった風の御朱印を頂けます。鎌倉~室町にかけて激動の歴史を経た寺院で、境内は見どころ一杯です。年に1日だけ開催される特別参拝ではブラタモリでも紹介された非公開の裏庭を鑑賞できます。
浄光明寺の芸術的御朱印
御朱印所
御朱印は客殿向かって左手の庫裏で頂けます。
志納金300円
御朱印
覚園寺と同様に「達筆の極み」といった風の御朱印です。
浄光明寺の激動の歴史
赤橋流北条氏の菩提寺
浄光明寺は1251年に鎌倉幕府第6代執権の北条長時により創建された寺院で、後に北条氏の中でも赤橋流と言われる家系の菩提寺となりました。もともと北条氏の屋敷だったものを寺としたようです。鎌倉時代に2度の火災に見舞われましたが、幕府の支援によりその都度再興されています。
特定の宗派にとらわれない「書宗兼学」の寺院として多くの高僧が集い、最盛期には数百人の僧がいたと伝えられています。
浄光明寺敷地絵図(重要文化財)
平成12年に鎌倉市内の旧家で発見されたもので、鎌倉幕府滅亡直後に寺領の確認を新政権に求めるために作成されたと考えられる絵図で、全盛期の境内の様子がはっきりと描かれています。
敷地の境界部分に太線が引かれて三角形のマークが描かれていますが、これは足利尊氏の従兄弟である足利重能の花押です。
山門に面した緩やかにカーブした道など、絵図に描かれた鎌倉時代の地形はほぼそのまま現在まで残されています。
足利氏による庇護
足利尊氏が赤橋守時の妹婿であったことから、浄光明寺は鎌倉幕府滅亡後は足利氏の庇護を受けました。
幕府滅亡直後の鎌倉は尊氏の弟の直義が治めていましたが、最期の執権であった北条高塒の遺児である時行による反乱の際、直義は現在の鎌倉宮の地に幽閉されていた護良親王を殺して鎌倉から逃亡します。乱の鎮定のため鎌倉に向かった尊氏は直義と合流して時行を討伐しますが、その後出された後醍醐天皇からの上洛命令を無視して蟄居した場所が浄光明寺です。
護良親王を殺したことに対する謝罪と謹慎という体裁をとっていますが、その一方で後醍醐天皇方の新田義貞を挑発します。後に義貞討伐を大義名分として出陣し、最終的に後醍醐天皇まで打倒して建武の新政を崩壊させました。
荒廃と再興
室町時代後半以降、鎌倉の他の寺院と同様に浄光明寺は荒廃し、住職もおらず本堂さえ失われてしまうような状態でした。しかし1668年に仏殿が再興され、その後数度の復興を経て現在に至っています。
アクセス
交通
横須賀線鎌倉駅徒歩約12分
地図
浄光明寺の境内
境内配置図
浄光明寺敷地絵図の仏殿の場所に客殿、僧堂の場所に庫裏、庫院の場所に不動堂、慈光院の場所に仏殿という配置になっています。
山門
もともと英勝寺の惣門として17世紀半ばに建てられたもので、大正15年に移築されてきました。
客殿
手前が愛染明王を祀った客殿、奥が庫裏です。
不動堂
1745年に建てられたもので、八坂不動と呼ばれる不動明王像を祀っています。
石段
仏殿と収蔵庫は凝灰岩を削り出して造成した上部のスペースにあり、そこまでは石段を上がります。ここから上の拝観は木、土、日、祝だけです。(雨天中止)
仏殿
1668年に建立されました。手前の槇の木は市の天然記念物です。
収蔵庫
国の重要文化財である阿弥陀三尊像が安置されています。中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩と勢至菩薩像が祀られていますが、かなりの大きさです。寺が荒廃して本堂が失われていた間に祀られていた場所については全くの謎なのだそうです。
ブラタモリで取り上げられた寺社・うどん屋
ブラタモリでも紹介された「裏庭」
2月から3月にかけて鎌倉では様々な寺社で「梅かまくら寺社特別参拝」が開催されますが、浄光明寺においては「僧侶と巡る特別参拝」ということで、境内の全ての施設を住職による説明付きで拝観することができます。
浄光明寺の場合は往復はがきによる事前申し込みが必要で、先着順で30名までとなっています。
浄光明寺の裏庭はNHKの「ブラタモリ」でも取り上げられた「知る人ぞ知る」名園ですが、日頃は非公開であり年に一度だけ、この特別参拝時においてのみ公開されます。
岩を削って造園したものとしては瑞泉寺の庭園が有名ですが、私の個人的感想としては瑞泉寺以上の美しさであったように思います。
写真も撮らせていただきましたが「SNSに投稿しない」という条件付きであったため、ご紹介できるのはここまです。
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