仙台の名刹である瑞巌寺では2種類の御朱印を頂けます。奥羽の覇者・伊達政宗が心血を注いで完成させた建物がそのままの姿で残されており、国宝の本堂や重要文化財の五大堂など境内は魅力であふれています。
御朱印は2種類+α
御朱印所
瑞巌寺の御朱印は拝観受付の隣でいただけます。こちらに御朱印帳を預け、帰りに受け取ります。
こちらでは本尊「聖観音」と五大堂の御朱印を頂けます。御朱印の種類について案内は何もないため、五大堂の御朱印を希望する際はこちらから伝えなければなりません。
志納金 300円
四寺廻廊の御朱印が別にある
慈覚大師円仁が開山したと伝えられる山寺の立石寺・松島の瑞巌寺・平泉の中尊寺と毛越寺を総称して四寺廻廊(しじかいろう)と呼んでおり、専用の御朱印帳も用意されています。
御朱印
聖観音
五大堂
瑞巌寺の由緒
瑞巌寺の創建は9世紀初頭で、慈覚大師円仁が創建した天台宗の延福寺が起源であるとされています。
13世紀中ごろになると鎌倉幕府執権北条時頼が武力で天台宗の僧を追い、法身性西を開山として寺を臨済宗建長寺派の円福寺に改めます。北条氏の保護を受けたことで円福寺は鎌倉五山に次ぐ格付けの寺院となりますが、戦国時代になると火災によって衰退しました。
江戸時代になって伊達政宗が仙台藩主となると廃墟同然となった寺の復興に着手します。まず寺名を瑞巌寺と改め、1604年から5年かけて本堂を全面改築し、1620年から22年にかけて障壁画を制作したことで桃山様式の粋をつくした荘厳な伽藍が完成しました。
伊達家の菩提寺として瑞巌寺は隆盛を極め、もともとは別個の存在であった五大堂も管理下に置くようになりますが、明治になると廃仏毀釈の影響で寺は再び荒廃することとなります。
しかし1876年の明治天皇東北巡幸に際して行在所となったことをきっかけとして復興し、1953年には本堂が国宝に指定され、2018年に完了した平成の大修理により伊達政宗が完成させた当初の姿がよみがえりました。
アクセス
交通
仙石線松島海岸駅より徒歩約10分
地図
境内の見どころ
総門
参道
震災前は参道の両側を杉並木が覆っていたようですが、津波による塩害で多くが立ち枯れしてしまい、約300本が伐採されました。参道の日向と日陰の境目付近に「3・11津波到達地点」の札が立てられています。
拝観受付
法身窟
諸国行脚中の北条時頼が法身性西と出会った場所とされています。一見すると土牢に見えますが、そうではないようです。
中門(重要文化財)
本堂(国宝)
伊達政宗が5年の歳月をかけて1609年に完成させたもので、内部の10室はそれぞれの使用目的に合った絵画や彫刻で装飾されています。外観は簡素で実質本位に見えますが中身は絢爛豪華で、装飾の鮮やかさに驚かされました。しかし現在建てこまれているのは精巧な復元模写なのだそうです。
10室の中には藩主が使用する「上段の間」、皇族を迎えることを想定した「上々段の間」等があります。
庫裡(国宝)
台所の役割を担う建物です。
切妻造りの大屋根の上に入母屋造りの煙出しを乗せた、非常に珍しい様式です。
玄関
庫裡に隣接した玄関は僧侶の出入りに使用されたものとされています。「登竜門」と名付けられていますが、出世とは全く関係ないようです。
五大堂(重要文化財)
坂上田村麻呂の奥州遠征の際に毘沙門堂を建て、慈覚大師円仁が延福寺を創建した際に五大明王像を安置したことから五大堂と呼ばれています。
現在の建物は1604年に伊達政宗が建てたもので、現存する東北最古の桃山建築です。
松島湾の小島にあって橋で結ばれており、現在では松島観光に欠かせない建物です。
震災における津波の影響
瑞巌寺をお参りするため松島海岸駅を目指して仙石線に乗っていると、震災の後に何度も目にすることになった津波の動画を思い出すような風景にたびたび出会います。現地に到着してみると瑞巌寺はまさに海沿いといってもよい場所に位置しており、いまさらながら震災の影響が心配されました。
震災時に宮城県から岩手県にかけての三陸沿岸には15mから20mの津波が押し寄せて壊滅的な被害をもたらしましたが、松島湾の奥では湾内の島々が天然の防波堤の役割を果たしたことにより津波は3m前後の高さに留まり、被害は小さかったそうです。
瑞巌寺では参道の半ばで止まったことで建物への被害はなかったものの、参道に林立していた杉並木が塩害により立ち枯れし、約300本が倒木の恐れがあることから伐採されました。
松島湾の小島にある五大堂では津波の被害は全くありませんでした。
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