吉原神社では吉原神社と吉原弁財天の2種類の御朱印をいただけます。吉原遊郭の守護神であったという過去を持つ神社で、歴史と伝統に根ざした境内には様々な見どころがあります。※2017年6月1日作成。2022年6月2日改定
吉原神社の2種類の御朱印
御朱印所
御朱印は鳥居をくぐって左手の社務所で「吉原神社」と「吉原弁財天」の2種類いただけます。
初穂料300円
御朱印
吉原神社
「江戸新吉原仲之町鎮座」と記されています。
吉原弁財天
弁天様の神使である蛇が「よし」の形をつくり、その横に「わら」と書かれています。
吉原神社と弁財天の由来、伝統と歴史
吉原遊郭には「元吉原」と「新吉原」がある
吉原とは江戸時代に徳川幕府から公認された遊郭で、現在の住居表示では台東区千束三丁目四丁目の一部になります。
徳川家康が江戸に入府して江戸幕府を開き、江戸城の普請や武家屋敷の整備を進めると関東一円から建築職人や仕事を求める浪人が江戸に集まったために人口の男女比は男が圧倒的に多くなったといいます。そのような時代であったことを背景に遊女屋を営んでいた庄司甚右衛門が遊郭の設置を幕府に申請して認可されました。
敷地として幕府から提供されたのが現在の日本橋人形町二丁目付近で、葦の繁る場所を埋め立てて造成したため最初は「葦原」と呼ばれ、後に縁起のよい「吉原」に改めたといいます。
江戸の街が発展して拡大すると大名屋敷が吉原に隣接するようになり、そのため幕府は遊郭に移転を命じます。
1657年に発生した明暦の大火をきっかけにして現在の地で営業を開始するのですが、移転前を元吉原、移転後を新吉原ともいいます。
5つの守護神を合祀した吉原神社
かつて吉原には遊郭の守護神として入り口と四隅に5つの稲荷神社が置かれていました。
⓵玄徳稲荷社②榎本稲荷社③明石稲荷社④開運稲荷社⑤九郎助稲荷社
明治5年にこれら5社を合祀して①の玄徳稲荷社の場所にお祀りしたのが吉原神社です。関東大震災にて焼失してしまいますが、昭和9年に現在の地に新社殿を造営し、その際に吉原弁財天も合祀しました。
吉原神社に祀られている稲荷神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は穀物の神としてだけでなく、農耕の神、商工業の神としても信仰されています。ご利益としては開運、縁結び、商売繁昌、開運、商売繁昌、技芸上達です。
アクセス
交通
日比谷線三ノ輪駅徒歩約10分
地図
周辺の寺社
境内の見どころ
大鳥居
社殿
昭和9年に造営された社殿は昭和20年の東京大空襲で焼失し、現在の社殿は昭和43年に再建されたものです。
逢初桜
恋い焦がれている人に初めて会うという意味を持つ御神木です。
境内社の「お穴さま」
地中で神社の敷地を護る神様です。
吉原弁財天本宮の必見ポイント
吉原神社から先、街の中央を貫く道は再びS字にカーブします。
徒歩1分ほど先の飛び地に吉原弁財天本宮があります。
江戸時代初期までこの辺りは湿地帯で多くの池が点在していましたが、遊郭が造成された際もこの地の池は残り、いつしか池畔に弁天祠が建てられました。
関東大震災で発生した火災では逃げ場を失った遊女がこの池に殺到し、490人もの溺死者が発生する悲劇の舞台となります。
震災の殉難者を慰霊する観音像です。
吉原弁財天の社殿です。東京芸大の学生による壁画が描かれています。現在吉原弁財天は吉原神社に合祀されているため、こちらは吉原弁財天奥宮になります。
かつて悲劇の舞台となった池はビル建設のために埋め立てられ、現在はかすかな名残を残すのみとなっています。
吉原遊郭の歴史を長くとどめることを目的に建てられた「花吉原名残碑」です。
現在も残る遊郭の名残
日本橋人形町にあった吉原が現在の所へ移転されるとき、田んぼに土を盛って土地を造成したため、遊郭は周囲よりも盛り上がった場所にあります。
2万坪の敷地は「お歯黒どぶ」と呼ばれた堀で囲まれており、出入りできるのは唯一大門だけでした。
堀は現在では全て埋め立てられていますが、その名残と思われる場所があります。
「吉原大門」交差点
「吉原」という名前は住居表示からは全て消されており、現在では交差点の名前として唯一残されています。
見返り柳
「吉原大門」交差点に面した場所にあります。
一晩遊んで翌朝に帰る時、昨夜の夢見心地を思い出しながら名残惜しそうにここから見返したということからこの名前が付きました。
衣紋坂
遊客がここで衣服をつくろったことからこの名がついています。遊郭の内部が外から見えないよう、S字カーブになっています。
大門跡
かつて吉原の唯一の出入り口である大門があった場所です。
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