両国の回向院では上半期と下半期で色が違う御朱印を頂けます。境内にある「鼠小僧の墓」は長年捕まらなかった強運にあやかろうという人に大人気で、「お前立」を削って持ち帰ることができます。相撲興行が最初に行われた場所であり、かつて国技館が置かれた場所でもあります。
上半期と下半期で色が違う回向院の御朱印
御朱印所
御朱印は本堂内の寺務所で扱っています。
志納金300円
御朱印
ご本尊「阿弥陀如来」の御朱印は上半期と下半期では若干異なっており、10月~3月の下半期では赤とシルバーの印、上半期では赤とゴールドの印が入ります。
「強運」で人気の鼠小僧の墓
鼠小僧は江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした盗賊で、7年間で武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込み、最後は捕縛されて市中引き回しの上獄門となりました。
「金に困った貧しい者に盗んだ金銭を分け与えた」というのは伝説にすぎず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。
長年捕まらなかった強運にあやかろうと墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在ではお墓の前に「お前立ち」が設置され、こちらを削るようになっています。受験生やギャンブラーに人気で、現在の「お前立ち」は平成に入って5代目です。
回向院の由緒
回向院は総武線両国駅からはちょうど国技館の反対方向に位置しています。
創建されたのは1657年で、この年に発生した明暦の大火の焼死者を葬った無縁塚が始まりとなっています。延焼面積・死者共江戸史上最悪の大惨事となった明暦の大火では10万人以上の焼死者が発生しましたが、その遺体の大半が身元不明者で引き取り手のいない状況でした。
4代将軍家綱の命により身元不明の遺体は幕府が本所両国に船で運んで埋葬し、無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
生ある全てのものへの仏の慈悲を説くという理念から、それ以降発生した安政の大地震・関東大震災・東京大空襲といった大災害の被災者を始めとしてありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
1768年に回向院の境内で初めて相撲興行が行われ、後に年2回興行が開催される定場所となり、明治42年になると境内北側に国技館が竣工し、これにより両国は完全に相撲の街となります。
アクセス
交通
総武線両国駅徒歩約5分
地図
回向院の境内
山門
力塚
昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑でもあります。
本堂
堂内では本尊の銅製阿弥陀如来坐像を拝むことができます。1705年に安置された巨大な像で、優しそうな柔らかい表情が印象的でした。
生ある全てのものを供養
回向院では生ある全てのものへの仏の慈悲を説くという理念から大災害の被災者の意外にも海難事故の溺死者、遊女、水子、刑死者、ペット・軍用犬・軍馬等の動物といったありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
猫塚
病気で商売ができなくなった飼い主のために商家に侵入し、二両咥えて逃げようとしたところを奉公人に見つかって殺された猫を葬っています。
犬猫供養塔
邦楽器商組合によるもので、三味線の革となった犬猫を供養しています。
馬頭観音堂
4代将軍家綱の愛馬を供養するために刻まれた馬騰観世音菩薩を祀っています。
軍用犬軍馬慰霊の碑
◆相撲にゆかりのある神社
旧国技館跡
日本では古来より神社仏閣の建築修復の資金調達を名目とした相撲興行が度々開催されてきました。こうした勧進相撲は「風紀を乱す」として度々禁止されましたが、1742年に勧進興行のすべてにわたって解禁され、回向院の境内では1768年に初めて相撲興行が行われます。1833年からは回向院境内の掛小屋が相撲開催の定場所となり、年に2度の興業が行われるようになりました。
明治17年の天覧相撲をきっかけに相撲人気が復活すると、天気に関係なく相撲を開催するため明治42年に回向院の境内に国技館(旧)が建設されます。
旧国技館はその後解体され跡地は現在では両国シティコアビルとなっています。
中庭に描かれた円はかつて土俵のあった場所です。
ちなみに両国駅構内の商業施設内には日本相撲協会監修の実物大の土俵が展示されています。