泉岳寺では納経をしてから直書きのみの御朱印を頂けます。赤穂義士による吉良邸討ち入りの舞台の一つとして有名で、境内には赤穗義士の墓もあり、12月14日には義士祭りが開催されます。
納経してから直書きで頂く御朱印
御朱印所
泉岳寺の御朱印は本堂右手にある総受付処で頂けます。
「御朱印」はもともと「納経」の証として頂いていたものです。泉岳寺ではこの意義を一部でも理解してもらえるよう、「納経」の機会を設けています。
御朱印帳を一旦預け、所定の用紙に書かれたお経の一節を筆ペンでなぞって提出します。用紙は4種類あり、私は一番簡単そうなものを選びました。
志納金 お気持ちで
御朱印
直書きのみで書置きはないようです。
過去に頂いた御朱印
平成28年12月14日付です。
泉岳寺の歴史は赤穂義士だけじゃない
泉岳寺は今川義元の菩提を弔うために徳川家康によって1612年に創建された寺院です。もともとは現在の警視庁がある桜田門の近くに位置していましたが、寛永の大火によって伽藍が焼失してしまい、徳川家光の命により現在の地に移転されました。その際に毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の御大名が尽力したことで浅野家との縁ができたきっかけだといいます。
また江戸三学寮の一つとして内外の教養人によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与しました。最盛期には山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時200名程の学僧が修学していたといいます。
1701年3月14日午前11時半頃に松の廊下の刃傷事件が発生すると浅野内匠頭は即日切腹となり、遺体は菩提寺である泉岳寺に埋葬されました。
赤穂義士による吉良邸討ち入りは1702年12月14日の早朝4時頃決行され2時間程度で終了し、吉良を打ち取った義士たちは泉岳寺で主君浅野内匠頭の墓前に首を供えて焼香しました。ちなみにその首は翌日泉岳寺の僧が吉良家に届けたといいます。
赤穂浪士は4大名家に預けられたのち、1703年3月20日に幕府の命により切腹となり、遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬されました。
幕末には境内に英国公使館が置かれたことから尊王攘夷の風潮の中でしばしば攻撃を受けることになります。
1923年に関東大震災により建物や墓が倒壊し、1945年には本堂が焼失しますが、1953年に本堂が再建されて現在に至っています。
アクセス
交通
浅草線泉岳寺駅徒歩約3分
地図
泉岳寺の境内
中門
泉岳寺にはもともと三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は1836年に再建されたもので、1932年に大修理を施されています。
大石内蔵助銅像
1922年に除幕されたもので、内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして江戸方向をじっとにらんでいる姿を表したものです。
山門
1832年に再建されたもので、二階部分には十六羅漢が安置されています。
本堂
旧本堂は先の大戦の置けるで空襲で焼失してしまい、1953年に再建された鎌倉様式の建築です。現在は修行僧たちが座禅・読経等を勤める場となっています。
戦後再建したとは思えぬ堂々とした建物です。
鐘楼堂
朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。
血染めの梅・血染めの石
浅野内匠頭が切腹した際にその血がかかったとされる梅と石です。
首洗い井戸
本懐成就の後、吉良の首級を洗ったとされる井戸です。
赤穂義士墓地
入口の門
浅野家の屋敷の裏門を移築したものだそうです。門をくぐると受付があり、ここで線香代300円を納めます。線香は百本近くあるため、お墓1基につき2本ずつ置けばちょうどよくなります。
配置図
預かりとなった屋敷ごとに並んでいました。
全景
毎年12月14日の義士祭りでは線香の煙がものすごいことになります。
大石内蔵助の墓
浅野内匠頭の墓の隣の建てられていました。
大石主税の墓
浅野内匠頭の墓
浅野内匠頭奥方の墓
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