長崎の山王神社は原子爆弾の爆心地から800mの距離にある神社で、当時の痕跡を数多く残す「被爆遺構」として大切に守られています。一本鳥居と被爆クスノキは必見です。
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山王神社の御朱印
山王神社では直書きの御朱印を頂けるようです。
しかし帰りの飛行機の時間の関係で御朱印所が開くまで待つことができず、今回は見送りました。
山王神社の由緒
山王神社は今話題の長崎スタジアムシティに程近い長崎市坂本に鎮座しています。
創建したのは徳川家光の側近だった松平信綱で、島原の乱鎮定の際にこの地の景色が比叡山に似ていると感じたといいます。地名がどちらも坂本であり、1638年に信綱は延暦寺の鎮守である山王権現(現在の日吉大社)を近江の坂本から長崎の坂本へ勧請しました。
1868年(明治元年)に日吉神社と改称し、1884年(明治17年)には維持が困難になっていた皇大神宮を合祀して浦上皇大神宮と称します。
1945年8月9日に神社から800mの場所に原子爆弾が投下され、境内は壊滅状態となりました。しかし、そこから徐々に境内の補修と整備が進められて現在に至っています。
アクセス
交通
長崎電気軌道(路面電車)「浦上駅前」停留所で下車。徒歩約5分
長崎本線浦上駅徒歩約7分
地図
九州で頂いた御朱印(記事は下に続きます)
「被爆遺構」としての境内
1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾により山王神社の境内は壊滅状態となりました。境内には原爆の恐ろしさを伝える痕跡がいくつも残されており、「被爆遺構」として大切に守られています。
一本柱鳥居
もともとは山王神社の二の鳥居として1924年に建てられたものです。原子爆弾が炸裂した際に左半分がもぎ取られ、さらに上部の笠木が風圧でねじれてしまいました。
また強烈な熱線により上部が黒く焼かれています。
鳥居の横に吹き飛ばされた左半分が並べられていました。
山王神社の参道には一の鳥居から四の鳥居までありましたが、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居以外はすべて倒壊してしまいました。一の鳥居も1962年に交通事故で倒壊したため、当時のままの姿で残っているのは二の鳥居だけです。
被爆クスノキ
山王神社の境内入口に立つ2本のクスノキは樹齢400~500年と言われており、社殿に向かって右が幹回り8.63m・左が6.58mあります。どちらも原爆の爆風により主幹の3分の1以上と枝葉を失い、幹も焼かれ黒焦げになりました。しばらくの間は枯れ木同然でしたが奇跡的に樹勢を取り戻し、現在では再び「大クスノキ」と呼ばれるまでになっています。
原爆により三の鳥居が倒壊して失われたため、鳥居の代わりにこの2本の楠に注連縄をかけて神域と外を隔てています。
2006年に社殿向かって右手の木の空洞(モルタルで埋めている所ではないかと思う)の中から見つかった石です。恐らく原爆の爆風で飛ばされてめり込んだのでしょう。
また赤い矢印の部分にも空洞があり、無数の大きな石が入っています。これもまた爆風で舞い上がった石が入ったものと思われます。
拝殿
1960年に再建されました。
本殿
1950年に再建されました。
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