大田区の新田神社では境内にあるモニュメントが描かれた御朱印を頂けます。南北朝時代に南朝の忠臣だった新田義興を祀った神社で、破魔矢発祥の地であったという意外な歴史がありました。
新田神社の御朱印
御朱印所
御朱印は社殿右奥の社務所でいただけます。
初穂料 直書き500円 書置き300円
御朱印
ちょうど七五三詣で混みあっており、この日は書置きのみの対応でした。「新田大明神」と記された御朱印には後述する「石の彫刻 LOVE神社」のモニュメントも描かれています。
破魔矢発祥の地だった歴史
南朝の忠臣だった新田義興を祀った神社
新田神社は新田義貞の次男で南北朝時代に南朝の忠臣だった新田義興を祀った神社です。
新田義興は無類の勇将として知られており、元服に際して「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として後醍醐天皇より「義興」の名を賜ったほどであったと言います。南朝の総大将であった父の義貞、さらに兄の義顕が戦死した後も義興は新田一族を率いて各地を転戦し、鎌倉奪還を目指しました。
一方、鎌倉公方であった足利基氏は義興の進出を畏れ、奸計を用いて殺してしまおうと執事の畠山国清や新田の家臣で足利に寝返った竹沢右京亮を用いて様々な策を企てます。(改心して再び新田側に寝返ったと装った。)そして1358年に足利尊氏が没すると竹沢は「今こそ鎌倉を奪回する好機」と義興に説いて矢口渡に誘い出し、義興主従14人が川を渡る際に襲撃して謀殺してしまいました。
その後この周辺で天変地異が相次いで人々を悩ませるようになったため、近隣の住民が義興の霊を鎮めるために墳墓の前に神社を創建して義興を祀ったことが新田神社の起源です。
現在では周辺の商店街と一体化したような存在となっており、東急多摩川線の武蔵新田駅の駅名は神社の名前からとられました。
破魔矢発祥の地
新田氏には「水破」「兵破」という二本の矢が家宝として伝わっている伝説があり、江戸時代には門前の茶店で「義興の矢」という矢が売り出されていました。
平賀源内がそこに目をつけ、矢を魔除けのお守りとして売り出すことを神社に進言して誕生したのが「矢守」で、これは全国の神社で販売されている破魔矢の起源であるとされています。
現在も社殿の前に破魔矢のオブジェが建っています。
アクセス
交通
多摩川線武蔵新田駅徒歩約3分
地図
周辺の寺社
七五三で賑わっていた境内
鳥居と社号標
御神木の欅
樹齢700年とされ、真っ二つになった状態でも青々と葉をつけています、そこから御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の御利益が授かると言い伝えられています。
拝殿
明治4年に造営された社殿は先の大戦における空襲で焼失してしまい、明治神宮で仮社殿として使用されていた建物を譲り受けて昭和35年に再建されました。
本殿
唸る狛犬
元々は雌雄2体ありましたが吽像は戦災で失われ、現在は阿像1体のみ残っています、足利基氏家臣の畠山一族の者・その血縁者の末裔が神社付近に来ると雨を降らし、うなり声を上げたという言い伝えがあります。
御塚
社殿の後方に15mほどの円墳があり、義興の遺骸を埋めた墳墓と伝わっています。柵で囲われていて中に入ると必ず祟りがあるといわれています。境内社
境内社の稲荷大明神は江戸時代に伏見稲荷大社より勧請しました。
珍しいモニュメント
神社が多くの人々が集まる場所となるよう、新田神社の境内には様々な珍しいモニュメントが設けられています。
「石の彫刻 LOVE神社」
ここで写真を撮ったカップルに幸せが訪れることを願って作成されました。
「石の卓球台」
近所の人々が集まる場所となることを願って作成されました。ラケットやボールを無料で借りることができます。
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