川中島古戦場八幡社の御朱印は全10種類で、銀色に輝く特別仕様の用紙で頂きました。その名の通り川中島の戦いの戦場に建てられた歴史的みどころのある神社で、アクセスは長野駅からバスで約20分です。
御朱印は10種類で、特別仕様の紙で頂いた
御朱印所
川中島古戦場八幡社の御朱印は社殿向かって右手の社務所で頂けます。
全て書置きで、全10タイプあります。コロナが終息すれば上段左端の御朱印は直書きになると思われます。
初穂料300円~500円
御朱印
銀色に輝く特別仕様の用紙に記された御朱印を頂きました。
武田信玄・上杉謙信と川中島古戦場八幡社の関連
川中島古戦場八幡社の由緒
社伝によれば川中島古戦場八幡社の創建は平安時代の中期とされています。文書の管理などを担う蔵人だった源顕清(みなもとのあききよ)が、何かの事情で信濃の地に流された際にこの地を訪れ、武運長久を祈って八幡大神を祭ったことが起源となっています。
武田信玄と上杉謙信の間で繰り広げられた第四次川中島の戦いの際に神社周辺が戦場となったことから社殿が破壊されてしまい、そのため信玄は高坂弾正に命じて社殿を再建させました。
1908年(明治41年)に諏訪大社の祭神である建御名方命を合祀し、1941年(昭和16年)に現在の本殿を長野県上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社から移築してきました。
川中島の戦いとは
川中島の戦いとは甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の間で北信濃の支配権をめぐって繰り広げられた戦いで、1553年から1564年までの間に5回起きています。そのほとんどが両軍のにらみ合いだけで終わっており、また川中島が戦場となったのは2回だけですが、これら5回を総称して川中島の戦いと呼ばれています。
実際に武田軍と上杉軍の間で大規模な戦闘が行われたのは1561年9月10日(旧暦)の第四次合戦だけで、一般的に「川中島の戦い」といえば第四次を指します。
この戦いに際して信玄は軍師である山本勘助が献策した「啄木鳥戦法」を採用します。兵を本隊と別動隊に分けて別働隊に妻女山に布陣した上杉軍を攻撃させて麓の八幡原に追いやり、平野部に布陣した本隊が挟み撃ちにするというもので、啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いて飛び出した虫を食べることから名付けられました。
しかし謙信はこれを察知して夜陰に乗じてひそかに麓に下りたため、夜が明けて霧が晴れると本来いるはずのない上杉の大軍が目の前にいて武田軍は度肝を抜かれます。混乱の中で手薄になった武田軍の本陣に対して謙信が単騎で切り込みをかけたのが有名な「信玄と謙信の一騎打ち」です。
しかし武田軍は壊滅寸前になりながらもよく持ちこたえ、妻女山攻撃が空振りに終わった別動隊が八幡原に到着したことで逆に上杉軍を挟み撃ちにすることに成功します。
最後は両軍が兵を引いたことで両軍合わせて死者7000人以上という戦いは終わりました。
アクセスはバスで約20分
交通
長野駅前より古戦場経由松代行バス利用、「川中島古戦場」バス停下車すぐ(乗車時間約22分)
地図
長野の寺社
川中島古戦場八幡社の境内
社号標・大鳥居
旧社殿(鞘堂)
鳥居をくぐると正面にあります。鞘堂によって風雨から守られています。
拝殿
現在ある社殿は上田市の生島足島神社が改築されたときの旧社殿を譲り受け、1940年(昭和15年)に移築したものだそうです。
本殿
逆槐
第四次川中島の戦いの前夜、信玄はこの地に土塁を積み重ねて本陣を築きます。この時に土塁の土留として根を上にして槐の杭を打ち込んだものが芽を出し、長い時間をかけて巨木に成長しました。
周囲に低い土塁の跡が残っています。
歴史的な見どころ
川中島の戦いを語る際に必ず登場する映像ではないでしょうか。
武田軍の「風林火山」の軍旗は良く知られています。
上杉軍の軍旗で「毘」は謙信が信仰していた毘沙門天、「龍」は乱れ龍を意味しています。
川中島の戦いにおける信玄と謙信の一騎打ちの際、傍らにいた原大隅が信玄を守るべく槍を突き出すと謙信の鎧からそれて馬にあたりました。馬が驚いてその場を駆け去ったため信玄は危ういところを救われますが、翌日馬上にいたのが謙信であったことを知った原大隅は悔しさのあまりこの石をやりで突き通したといわれています。
しっかりと穴が貫通しています。
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