伊勢原の浄発願寺は江戸時代には山全体を寺領とするほど繁栄した寺院で、明治以降衰退したとはいえ山中にいきなり出現する三重塔には驚かされます。
浄発願寺の御朱印
御朱印所
御朱印は本堂左隣の護摩堂で受け付けています。
志納金300円
御朱印
それなりの時間待ったのですが、その分だけかなり手間のかかった丁寧に書かれた御朱印です。
浄発願寺の由緒
浄発願寺は上野寛永寺の凌雲院の末寺となる天台宗の寺院です。1608年に創建されましたが、開山の弾誓上人はひたすら修業に励み、口にするのは木の実や草ばかりだったということから「木食上人(もくじきしょうにん)」と呼ばれていました。
徳川家康が上人に深く帰依したことにより江戸幕府の手厚い保護を受け、家康から寄進された16万5千坪もの寺領を有していたということです。往時には恐らくこのあたりの山全体が浄発願寺の敷地であったと思われます。当時は山岳修行者の行場として常に40名以上の僧が修業しており、伊豆、相模、武蔵、信濃、佐渡の諸国に末寺十八を有していました。
檀家には徳川本家や尾張徳川家、佐竹家、藤堂家、公家の広幡家などそうそうたる家の名が並んでおり、一体どこまで繁栄していたのか想像もつきません。
しかし明治になって出された神仏分離令とそれによる廃仏毀釈により激しい弾圧を受け、寺領も大幅に減少して現在に至っています。
雨乞い信仰の寺であり、罪人の駆け込み寺でもあった
浄発願寺を信仰し、頼っていたのは有力大名や公家ばかりではありません。
寺が日向川の水源地域に位置していたことから雨乞い信仰の寺とされ、下流域の伊勢原・大磯・平塚といった地域の人々の崇敬を受けてきました。
四世空誉上人は幕府より罪人五十三人を乞い受けて寺で仏道修業をさせましたが、それ以降浄発願寺は『駆け込み寺』として有名になりました。放火・殺人以外の罪人が寺に逃げ込めばその罪を許されることが公認され、それは明治まで続くことになります。
三重塔が印象的な寺院
三重塔が印象的な浄発願寺の境内
浄発願寺は元々は現在よりも約1km上流の一ノ沢にありましたが、昭和13年秋の台風で発生した山津波で大被害を受け、現地での再建を断念して現在の地に移転されました。
日向薬師の参道入り口から700mほど奥まった場所にあり、山中にいきなり出現する三重塔に驚かされます。
尚、かつて寺があった場所は現在は奥の院と呼ばれ、往時の痕跡が残されています。
地蔵菩薩坐像
1755年に江戸浅草の人々の発願によって鋳造されたものです。
本堂
天井の下の梁の部分には美しい彫刻が施されています。
三重塔
古くからあるように見えますが、平成12年竣工のかなり新しい建物です。内部には釈迦苦行像が祀られています。
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