741年に聖武天皇によって出された「国分寺建立の詔」によって日本各地に68カ所の国分寺が建立されましたが、その内の武蔵国分寺の後継寺院が現在の武蔵国分寺です。境内に隣接した湧水群は「全国名水百選」の一つに指定されています。こちらでは歴史と伝統を感じさせられる御朱印を頂けます。
武蔵国分寺の御朱印
御朱印所
御朱印は本堂横の寺務所でいただけます。
志納金300円
御朱印
歴史と伝統を感じさせる御朱印をいただきました。
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武蔵国分寺の由緒
国分寺とは
聖武天皇が即位したのは中央貴族の間で激しく繰り広げられた権力争いにより、政治が激しく混乱していた時代でした。都が転々と移されるような状況下で、737年には疫病が流行します。そのため鎮護国家仏教の教えにより国土の平安を保とうという思想が強まった中で出されたのが「国分寺建立の詔」であり「廬舎那仏造立の詔」です。
国ごとに国府の近くに国分寺をつくり、七重塔を設けて金光明最王教と妙法蓮華経を安置させ、奈良の東大寺を諸国総国分寺としました。
かつては大伽藍が整備されていた
武蔵国においては湧水の豊富な多摩川の崖線を背にした現在の地が選ばれ、東西で156m、南北で132mの範囲に金堂や講堂などの伽藍の中枢部が整備され、またその外側には七重塔がそびえていました。
武蔵国分寺、国分尼寺跡地は国の史跡に指定されています。
各地の国分寺が時代の流れの中で次第に寂れていく中、武蔵国分寺は約600年存続し続けます。しかし新田義貞と鎌倉幕府軍が戦った1333年の分倍河原の戦いに巻き込まれ、その兵火によって焼失してしまいました。この時に難を逃れた薬師如来像を戦後新田義貞が寄進して1335年に完成した薬師堂に安置し、それによって武蔵国分寺が再建されました。
アクセス
交通
中央線・武蔵野線西国分寺駅徒歩約14分
地図
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武蔵国分寺の境内
境内案内図
山門
東久留米市の米津寺の楼門を明治28年に移築してきたものです。
本堂
万葉植物園
元住職が万葉集に歌われた植物160種を集めて造った植物園で、市の天然記念物に指定されています。
それぞれの植物の名と万葉集に詠まれた歌が書かれた解説が付けられています。
新田義貞が寄進した薬師堂
仁王門
18世紀半ばに建立されたもので、1335年に建てられた旧薬師堂の廃材を再利用したといわれています。
薬師堂への参道
うっそうとした森に覆われていました。
薬師堂
分倍河原の戦いの後に新田義貞が寄進した薬師堂はかつての金堂跡にありましたが、1756年頃に現在の丘陵上に建替えられました。
「全国名水百選」に指定された湧水群
武蔵野台地を多摩川が削ってできた国分寺崖線においては水が湧きだしている場所があちこちにありますが、その中でも代表的な湧水であるとしてこのあたりは「全国名水百選」の一つに指定されています。
近くには不治の病に侵された娘が身を清めたところ山井が癒え、元の美しい姿を取り戻すことができたという「真姿の池」があります。
水路沿いの遊歩道は「お鷹の道」と名付けられ、ホタルのすむ川として知られています。
お骨は骨壷や骨袋に納め、耐久性に優れた厨子にて保管。フロントにて参拝受付を頂きますとお選びいただいた参拝室まで厨子が自動で運ばれます。
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◆分倍河原の戦いでとばっちりを受けた寺社
◆とばっちりを受けなかったと思われる谷保天満宮
◆新田義貞の鎌倉突入の際に焼けてしまった成就院