平泉の達谷西光寺は達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)として知られています。平安時代にこの地で発生した反乱の鎮定に成功した坂上田村麻呂が戦勝を毘沙門天のご加護のおかげと感じ、京都の清水の舞台に似せたお堂を建てたのが起源となっており、御朱印も岩壁をくりぬくような豪快なものでした。
達谷窟毘沙門堂の御朱印
御朱印所
御朱印は一之鳥居横の授与所で頂けます。
志納金300円
御朱印
岩壁をくりぬくような豪快な御朱印を頂きました。
本格定番おせち一人前
アクセス面での注意点
達谷窟毘沙門堂まではバスで13分くらいでした。しかし田舎の信号も渋滞もない道で13分ですからそこそこ距離はあります。
「達谷窟」バス停で下車したのが14時18分でした。何しろ1時間に1本という頻度ですから、終点に向かったバスが再び帰ってくるまでの間にお参りを終えて御朱印も頂かなくてはなりません。
念のため平泉駅方面のバス停の時刻表を確認すると次の便が14時42分発でその次が15時42分でした。ということは何としても24分でお参りを済ませ御朱印も頂かなくてはいけません。
ゆっくりとお参りしたい方はレンタサイクルか何かを使った方がいいと思います。(同じく1時間に1本の東北本線との接続も甚だしく悪い)
大人二人で過ごすお正月に二人前本格おせち
達谷窟毘沙門堂の由緒(公式)
およそ1200年前、この地に悪路王・赤頭・高丸といった蝦夷がこの地に拠点を構えて良民たちを苦しめ、女子供たちを掠めるといった乱暴なふるまいをしていたため坂上田村麻呂がこれを成敗します。
戦勝を毘沙門天のご加護のおかげと感じた坂上田村麻呂が京都の清水の舞台に似せたお堂を建てて窟毘沙門堂と名付けたというのが公式の由緒となっています。
「悪路王」は本当に悪人だったのか?
蝦夷とは大和朝廷から見た北海道・東北地方に住む人々のことで、平安時代初期の朝廷にとって蝦夷の平定は重要な問題でした。由緒に登場する「悪路王」とはこの時代の蝦夷の軍事指導者であったアテルイのことではないかという説もあります。アテルイは一度は大和朝廷の軍を撃退しますが、坂上田村麻呂に敗れて処刑されます。
歴史というものは支配者が自己を正当化するために利用する場合が多々あります。「悪路王」が本当に悪人だったかについては少し考慮する必要があるかもしれません。
坂上田村麻呂の征討以後蝦夷の反乱は終息に向かい、帰順した蝦夷は俘囚と呼ばれるようになります。その俘囚と朝廷の間のトラブルから前九年後三年の役が発生し、その結果この地に奥州藤原家という巨大な地方勢力が誕生するのです。
達谷窟毘沙門堂の境内
一之鳥居
バスを降りると毘沙門堂の一之鳥居がすぐ目の前にありました。
二之鳥居
三之鳥居
「一之鳥居は石之鳥居、二之鳥居は丹之鳥居、三之鳥居は杉(さん)之鳥居」と称され、特に二之鳥居、三之鳥居は独特の様式となっています。
蝦蟇ヶ池弁天堂
達谷川や北上川を美しい浮島が行き来しているのを見た慈覚大師が貧欲神の化身であるガマであると見破り、宇賀神の化身である弁財天をその上に乗せて抑え込んでいるそうです。
つまり弁天堂のあるこの島はガマであるということです。
顔面大佛
前九年後三年の役の死者を敵味方の区別なく供養するため源義家が岩壁に掘ったとされます。
もともとは胴体もありましたが、明治29年の地震で首から下が崩落してしまいました。
姫待不動堂
悪路王がさらってきた姫君を逃げないよう待ち伏せしていたことに由来します。
金堂
昭和62年に再建に着手し、平静8年に完成しました。後世に技を伝えるために昔ながらの工法を用いて建てられています。
毘沙門堂
達谷窟毘沙門堂は岩壁に食い込むようにして建てられている毘沙門堂で知られています。
毘沙門堂はこれまで度々火災による焼失と再建を繰り返しており、現在の建物は昭和36年に再建された五代目となります。
本当に岩壁に食い込んでいるようです。
一人前から六人前まで幅広く対応します
★スマホで御覧の方はPCでも見ていて抱きますと写真がよくわかります。
「参考になった」と思われたらはてブの所をポチっとして頂けますと幸いです
◆平泉の魅力ある寺院の記事
◆同じく清水の舞台を模した上野の清水観音堂の記事