極楽寺の境内で頂いた御朱印は流れるような美しい筆跡でした。有名な切通しのすぐ近くに位置しており、鎌倉でも屈指の歴史ある寺院です。
極楽寺の御朱印
御朱印所
御朱印は本堂左手の寺務所でいただけます
志納金300円
御朱印
流れるような美しい筆跡の御朱印をいただきました。
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鎌倉でも屈指の歴史ある寺院
境内は撮影禁止のため門の外から思い切り拡大して撮ってみました。
地獄さながらの場所だったため「極楽寺」と名付けられた?
極楽寺はもともと深沢にあった念仏系の寺院ですが、鎌倉幕府第2代執権北条義時の三男である重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移しました。
当時の鎌倉では市街地での埋葬が禁じられており、また鎌倉石をくりぬいて「やぐら」を掘ることが出るのも上流階級だけでしたから、庶民が死ぬと遺体は山の外に運んで埋めるか放棄するしかありません。そのためこの辺りは死体が山積みとなり、また身寄りがなく行き場を失った者がたむろするようになって、地獄そのものの場所となりました。同じように建長寺周辺も地獄谷と呼ばれています。地獄さながらの場所に建てられた寺院であるため極楽寺と名付けられたという説があるくらいです。
最盛期は大寺院だった
開基である北条重時は1261年に亡くなりますが、1267年に開山として良寛房忍性を迎え伽藍の整備が進みました。
最盛期には広大な敷地に七堂伽藍と49の小院があった大寺院だったといいます。鎌倉五山の一つ「浄妙寺」のかつての敷地は「浄明寺」という地名に残っていますが、同様に現在の極楽寺1~4丁目が極楽寺の寺領だったとすれば相当広大な敷地であったことになります。
アクセス
交通
江ノ電極楽寺駅徒歩約2分
地図
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良寛房忍性が開いた極楽寺坂切通
江島方面から鎌倉に入るための大動脈であり鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通は良寛房忍性が1300年頃に道を通したといわれています。
当初は右側の成就院の門前と同じ高さを通っていたといいます。
江戸時代になり通行の便を良くするため坂を掘り下げていき、現在のような完全な切通になりました。坂の傾斜が緩くなっていくたびに成就院は階段を継ぎ足さなければならず、現在の極楽寺側の階段を見るとその過程がよくわかります。
良寛房忍性は本当に「菩薩」だったのか
良寛房忍性は貧民救済のために尽力したことで知られ、極楽寺の境内にも施薬院、悲田院、療病舎などが建てられ、貧民は無料で診察したりしたことで忍性菩薩と呼ばれるほど尊敬を集めました。そして没後遺骨が6か所に分骨されるほど人々に親しまれていたのです。
善人の極みのような良寛房忍性ですが、1271年の大干ばつの際は「菩薩」とは思えない行為に走ります。
「負けた方が相手の弟子になる」という約束で日蓮と雨乞い対決をして惨敗してしまいますが、約束を反故にするだけではなく、連名で幕府に訴えることにより日蓮に「龍ノ口法難」をもたらしたのでした。
「菩薩」と呼ばれるくらいの名僧であっても、公衆の面前で恥をかかされれば逆上してしまうくらい人間というものは弱いものなのでしょう。
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