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【御朱印】安国論寺の日蓮は白猿の導きで襲撃を逃れた

都会の喧騒から切り離された異空間であった妙法寺のお参りを終えて今度は安国論時に向かいました。

安国論寺は松葉ヶ谷の一番奥まった場所に位置していますが、同じ松葉ヶ谷の妙法寺や長勝寺と同様に日蓮が鎌倉において布教する拠点であった松葉ヶ谷草庵の跡であると主張しています。そのためこれら三寺院はいずれも公式には日蓮が開山という事になっています。安国論寺の場合は日蓮の弟子の日朗が「立正安国論」が執筆された場所とされる洞穴のそばに安国論窟寺を建てたことが事実上の始まりということができます。

山門です。入ってすぐの場所に御朱印所があり、そこでまず御朱印帳を預けます。

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境内はかなり入り組んでいるようです。

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参道には正岡子規の句碑がありました。

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「鎌倉の松葉が谷の道の辺の法を説きたる日蓮大菩薩」と書かれています。子規は明治21年と26年の2回鎌倉を訪れており、その際に詠んだ句です。

 

安国論寺の本堂です。

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御小庵です。日蓮が「立正安国論」を執筆したと言われる御法窟の前に建てられています。

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立正安国論は当時起こっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を始めとする念仏経や禅宗などの邪教に起因するものとし、幕府へ正教を法華経とするよう促す内容であったため、当然のことながら日蓮は他宗の僧から激しく憎まれる存在となりました。

 

御小庵の隣に建てられた熊王殿です。日蓮の従者であった熊王が祀られています。お参りすると歯の痛みが和らぐといわれています。

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富士見台登口です。ここから富士見台を経由して南面窟まではかなり厳しい道が続きます。

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富士見台からの眺望です。富士山は見えませんでしたが、由比ガ浜から稲村ケ崎まで見渡せました。

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このような道が続きます。本当にこの道でいいのか不安になりました。

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松葉ヶ谷の法難の際に日蓮が一時的に身を隠したとされる南面窟です。

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「なんだコンクリートのトンネルじゃないか」と一瞬思いました。寺にとって重要な聖地ですから崩れないように固めたのでしょう。一番奥だけ岩盤がむき出しとなっていました。

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1260年8月27日の夜に御小庵にいた日蓮の袖をひくものがおりました。何事かと見ると白猿がどこかへ案内しようとします。これにより日蓮は危ういところを襲撃から逃れてこの南面窟に避難できたとされています。これが「松葉ヶ谷の法難」です。

 

日朗上人御荼毘所です。

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日郎は日蓮六老僧の一人で龍ノ口法難に際しては土牢に幽閉され、その後佐渡に流されていた日蓮を8回尋ねたほどの人物です。日蓮の死後は池上本門寺の基礎を築き、死後は遺言により松葉ヶ谷にて火葬されました。

奥の墓地には東芝社長や経団連会長を務め、熱心な法華経信者として知られる土光敏夫の墓もあります。

 

御朱印は書置きのものを御朱印帳に貼ってくれます。

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とてもかっこいい御朱印を頂きました。

 

 ◆同じく松葉ヶ谷の妙法寺の記事

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◆同じく松葉ヶ谷草庵の跡と主張するも形勢が悪い長勝寺の記事

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