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【御朱印】極楽寺を開山した忍性は実は雨乞い対決で日蓮に惨敗していた

極楽寺と言う寺院は各地にありますが、今回は鎌倉の極楽寺をご紹介します。

鎌倉は三方を山に囲まれ前面が海という地形のため、外部から入るためには海岸べりを進むか山を越えなければなりません。その中の一つである極楽寺坂切通に面しているのが良寛房忍性によって開山された極楽寺です。

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境内は撮影禁止のため写真はこれだけです。


極楽寺はもともと深沢にあった念仏系の寺院ですが、鎌倉幕府第2代執権北条義時の三男である重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移しました。
当時の鎌倉では市街地での埋葬が禁じられており、また鎌倉石をくりぬいて「やぐら」を掘ることが出るのも上流階級だけでしたから、庶民が死ぬと遺体は山の外に運んで埋めるか放棄するしかありません。そのためこの辺りは死体が山積みとなり、また身寄りがなく行き場を失った者がたむろするようになって、地獄そのものの場所となりました。同じように建長寺周辺も地獄谷と呼ばれています。地獄さながらの場所に建てられた寺院であるため極楽寺と名付けられたという説があるくらいです。


開基である北条重時は1261年に亡くなりますが、1267年に開山として良寛房忍性を迎え伽藍の整備が進みました。
最盛期には広大な敷地に七堂伽藍と49の小院があった大寺院だったといいます。鎌倉五山の一つ「浄妙寺」のかつての敷地は「浄明寺」という地名に残っていますが、同様に現在の極楽寺1~4丁目が極楽寺の寺領だったとすれば相当広大な敷地であったことになります。


極楽寺の切通を最初に開いたのも良寛房忍性で、それ以降鎌倉へ入るための主要幹線道路として使用されるようになりました。
NHKのブラタモリでも取り上げていましたが、当時の極楽寺坂は成就院の門前と同じ高さを通っていたといいます。そのため坂の頂上からの眺めはこうだったと思われます。

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江戸時代になり通行の便を良くするため坂を掘り下げていき、現在のような完全な切通になりました。坂の傾斜が緩くなっていくたびに成就院は階段を継ぎ足さなければならず、現在の極楽寺側の階段を見るとその過程がよくわかります。


良寛房忍性は貧民救済のために尽力したことで知られ、極楽寺の境内にも施薬院、悲田院、療病舎などが建てられ、貧民は無料で診察したりしたことで忍性菩薩と呼ばれるほど尊敬を集めました。そして没後遺骨が6か所に分骨されるほど人々に親しまれていたのです。


善人の極みのような良寛房忍性ですが、常栄寺(ぼたもち寺)の時にも書いたように1271年に行われた日蓮との雨乞い対決に惨敗した際はとても「菩薩」とは思えない行為に走ります。「負けた方が相手の弟子になる」という約束を反故にし、連名で幕府に訴えることにより日蓮に「龍ノ口法難」をもたらしたのでした。


「菩薩」と呼ばれるくらいの名僧であっても、公衆の面前で恥をかかされれば逆上してしまうくらい人間というものは弱いものであり、その弱さを受け入れることが先日安楽寺で書いて頂いた「至誠心」なのかもしれないと今思っています。

 

御朱印は昨年7月にお参りした時のものです。

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流れるような美しい筆跡の御朱印をいただきました。

 

◆安楽寺で見開きで書いて頂いた「至誠心」の意味

minamimachida0706.hatenablog.com

◆忍性を逆上させた日蓮がその後たどった運命

minamimachida0706.hatenablog.com

最後まで読んでいただきありがとうございます。