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【御朱印】本覚寺は日蓮が説法を再開する拠点だった

今回ご紹介するのはかつて日蓮が説法の拠点とした本覚時の御朱印です。
日蓮が出家したのが1238年。比叡山、薬師寺、高野山、天王寺、東寺といった寺院に遊学し、鴨川の清澄寺で悟りを開いたのが1253年ですから、鎌倉時代がまさに中盤を迎えようとしている時期になります。
悟りを開いた日蓮は千葉から鎌倉へ出てきて布教を始めました。寶戒寺から本覚寺へ向かう途中に「日蓮上人辻説法跡地」が残されています。

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鎌倉時代のこの辺りは武士の屋敷と商家が混在していて、日蓮は毎日このあたりに立って法華経の功徳を説いていたとされています。


鎌倉時代であった13世紀は、気候の長期変動でみると、暖かかった平安時代から急に気温が下降した時代であったといいます。こうした気候変動により凶作が頻発し、それが飢饉・疫病の流行へと直結したと思われます。
また1241年に発生した大地震は津波を伴い、由比ガ浜の八幡宮拝殿が流されるという被害がありました。さらに1274年と1281年の二度にわたり元からの侵攻を受けるなど、この時代はこれでもかと言うほど国難が続いたのです。


社会全体が不安に包まれていたような時代に日蓮の教えは来世ではなく今を生きることの大切さを説いたものです。法華経のみが釈迦の真の教えであり、来世での救いしか求めない民衆の誤った信仰や、加持祈祷のみに頼る幕府の誤った政策が世の中を混乱させていると大胆に批判しました。
こうして世間を敵に回した日蓮は他の宗派の信者から二度にわたり襲撃され、また幕府に捕らえられ首を落とされる寸前までなります。しかし危ういところで処刑は中止となり、以後三年に渡る佐渡への流罪の後布教の拠点としたのが本日ご紹介する本覚寺です。


現在本格寺がある場所は幕府の裏鬼門にあたるため、源頼朝が鎮守として夷堂を建てていました。佐渡から戻ってきた日蓮はそこを住まいとして説法を行ったのです。日蓮ゆかりのこの地に後に寺院が建てられたのが本覚寺です。二代目住職の日朝により身延山から日蓮の骨が分骨され、そのため「東身延」と呼ばれています。


閑静な住宅地の中にいきなり堂々たる山門が出現しました。

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昭和56年に再建された現在の夷堂です。

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敷地内は梅が綺麗に咲いていました。

f:id:minamimachida0706:20170217221926j:plain大正時代に創建された本堂です。

f:id:minamimachida0706:20170217222004j:plain日蓮御分骨堂です。身延山から移した日蓮の分骨を祀っています。

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赤い帽子をかぶってほほえむ「しあわせ地蔵」です。願い事を唱えながらその頭を撫でると叶うとされています。

f:id:minamimachida0706:20170217222136j:plain御朱印は山門脇の受付で頂けます。

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大変力強い御朱印をいただきました。

 

◆本覚寺から徒歩約10分の寶戒寺の記事

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 ◆同じく日蓮のゆかりの地である常栄寺(ぼたもち寺)の記事

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