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【御朱印】寛永寺の諸堂で開山堂だけ「輪王寺門跡」となっている理由はややこしい

昨日述べましたように上野公園内に点在する寛永寺の諸堂を根本中道からまわってきました。根本中堂から国立博物館の反対方向に進むと寛永寺の開山堂にたどり着くことができます。途中の寛永寺霊園の中には徳川歴代将軍後霊廟があり、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、11代家斉、13代家定が埋葬されているのですが、残念ながら非公開です。


開山堂とはその寺院を建立した僧の像を祀った堂のことで、寛永寺の場合慈眼大師天海大僧正および天海大僧正が尊崇していた慈恵大師良源大僧正の両像をお祀りしていることから「両大師」と呼ばれています。


天海大僧正は徳川家康から家光までの3代に仕えた僧であり、この時代に107歳まで生きた「怪僧」といってよい人物です。家康の参謀として豊臣家に対する様々な陰謀をたくらみ、大阪冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件にも関与したと言われています。天下の行方が定まった家光の時代には風水に基づいた江戸の都市計画に関わりました。


天海大僧正の死後寛永寺の第3代貫首に後水尾天皇の第三皇子である守燈法親王が日光山主と兼務して就任します。後に輪王寺宮の名前を賜ると以後幕末まで皇族が関東に下向し、代々輪王寺の宮を継承しました。
皇族や皇室にゆかりのある貴族が住職を務める寺院を指す言葉に門跡というものがありますが、こうして寛永寺は輪王寺門跡となったのです。しかし幕末の戊辰戦争の結果最後の輪王寺の宮が還俗してしまい輪王寺の名前は中絶しました。
しかし東京で唯一の門跡寺院の名が跡絶えてしまうことを惜しんだ東叡山・日光山両山からの要請により明治16年に輪王寺という寺が再興され、さらに二年後門跡寺院としての再興も許されたのです。

東叡山 輪王寺(別称:開山堂・両大師) | 天台宗東京教区

東叡山の輪王寺は寛永寺の開山堂の敷地内に設けられました。そのため寛永寺の諸堂で開山堂の御朱印のみ「上野寛永寺門跡」と書かれています。


歴史的には非常にややこしい寛永寺開山堂ですが、根本中堂同様にひっそりとした佇まいです。追ってご紹介する不忍池弁財天や清水観音堂とはえらい違いです。

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お堂には土足のまま上がることが出来ます。内部は根本中堂のような絢爛さはなく、落ち着いた雰囲気でした。お参りを済ませると道内で御朱印を頂けます。幕末の上野戦争、関東大震災、東京大空襲という様々な危機を乗り切ってきたにもかかわらず平成元年の火災で本堂と開山堂が焼失しました。現在の建物は平成5年に再建されたものです。

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本堂に向かって右側に純白の阿弥陀堂があります。

f:id:minamimachida0706:20170113211421j:plain三体の仏像が納められていましたが、何とも親しみを感じるお姿でした。この後は上野公園を突っ切り上野大仏に向かいました。

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