酒と車と御朱印の日々

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【御朱印】寛永寺は上野桜木一丁目の根本中堂だけじゃない

1590年に徳川家康が江戸に入城すると独自の考えにより全く新しい街づくりを始めるのですが、その時必ず出てくるのが「江戸城本丸から見て鬼門にあたる方角に寛永寺を置き、裏鬼門にあたる方角に増上寺を置いた」ということです。さらに神田明神や日枝神社もこの考えに基づいて移設するなど江戸というのは風水的に見て完璧を期した街でした。京都における比叡山の役割を負っていたのが寛永寺であり、東の比叡山ということで東叡山という名になったと言います。


不動産の世界では「客が風水を持ち出してきたら決まらない」というどうしようもない経験則がありました。風水的に理想の部屋探しでは無理であっても、広大な湿地帯にゼロから始める江戸の街づくりの場合、風水的に完璧なものが可能だったのです。


それだけ重要な役割をもっていた寛永寺とはどのような寺院なのか、ということで初めてお参りしたのが昨年の6月です。(写真は本日撮ってきた物です。)


鶯谷駅から寛永寺陸橋を渡り、閑静な住宅街を抜けた先にありました。

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誠に堂々たる建物で「根本中堂」という看板が掲げられていました。お堂の中に入ってお参りできますが、内部は金色の仏像が何体も安置され徳川の紋所とあいまってパワーを感じる空間でした。ちなみにこの地は幕末の鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜が恭順謹慎した地であり、蟄居していた部屋は非公開ですが保存されています。

f:id:minamimachida0706:20170112220946j:plain敷地内にあったのはこれだけで、増上寺のような寺院をイメージしていた私としては「狭まっ!」というものでしかありませんでした。お参りする人もまばらで「徳川家の菩提寺として江戸時代は栄華を極めたが明治維新後新政府に土地を召し上げられ、廃仏毀釈の嵐の中で荒廃し、その後関東大震災や東京大空襲により・・・」というさびれたイメージが出来上がってしまいました。

 

やはりお参りをする場合は最低限の下調べは必要です。
最盛期の寛永寺は現在の上野公園のほぼ全域分の広さがあったということですが、幕末に上野の山が彰義隊の戦いの戦場となって大打撃を受けました。また明治政府によりかなりの敷地を公園用地として指定されるなど規模としては大幅に縮小することになりますが、それでも清水観音堂、五重塔といった建物は先の大戦の戦火もくぐり抜けて現在まで生き残っています。昭和33年に再建された不忍池弁天堂、平成5年に再建された開山堂等もあわせ寛永寺の諸堂は上野公園内に点在しており、これらが全て寛永寺の諸堂ということですから現在でも立派な大寺院であります。根本中堂だけ見てさびれているなどと判断してはいけません。

本日は根本中堂の他、現在まで残る寛永寺の諸堂をまわりましたので明日以降順々にご紹介していきます。


昨年6月に頂いた御朱印です。

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 大変に格式のある御朱印を頂きました。

 

◆上野公園内に鎮座する上野東照宮の記事 

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  ◆寛永寺諸堂の一つ清水観音堂の記事

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